ビジネス : 私がヒラリーのボランティアになったわけ(2)

私がヒラリーのボランティアになったわけ(2)

私がヒラリーのボランティアになったわけ(2)
さて、留学が終わり、日本に帰国後、会社員として働き始めたが、家族の度重なる病気や事故で看護や介護が必要となり、私は時間が自由に使える独立という道を選ぶこととなった。

父は東京に仕事で来ているときに倒れたので、実家の大分県から母が看護に来てくれた。数か月の東京滞在の後、大分に戻った翌日、今度は母親が実家近くで交通事故に遭ってしまう。母は7か月弱の入院を余儀なくされた。

私はその後、東京の父のアパート、病院、私の仕事場、私の部屋、そして実家の九州・大分を毎週ぐるぐる回った。金曜の夕方、都内のどこからかタクシーに乗り、羽田空港に向かう。タクシーの中から会社のアシスタント嬢に電話して、連絡事項を確認してはその日の仕事を終えた。

最終便に乗って大分に向かい、実家に着くのは夜23時前。土曜・日曜と病院や所用を済ませ、日曜の最終便で東京に戻る生活が約8か月続いた。

独立した頃、ちょうど健康に関するコラムの執筆を始めていた。なんとか家族のQOL(クオリティ・オブ・ライフ=「生活の質」人間らしく、満足して生活しているかの概念)を上げられないかと考えていたことで、私は自然と医療・健康に関する仕事が増えていった。

また、司会やナレーション、研修講師の仕事など、できることは何でもやった。会社員時代に貯めたわずかなたくわえは、音を立てて崩れるように減っていく。働かなければ、食べていけない。大分の同級生が地元に戻ることを薦めてくれたが、お給料が見合わない。私はそのままの生活を続けることを覚悟した。

転機は早くやってきた。健康関連の仕事が増えていたおかげで、その関連企業様が仕事を大量に依頼してくださった。「1円から起業ができる」そんな時代の波もあり、私は株式会社を立ち上げた。仕事の内容は、企業のエグゼクティブや政治家、個人の印象をトータルで変え、パーソナルブランドを作るという、今までにない画期的なコンセプトだった。自分が起業することになろうとは、若い頃には考えもしなかったことであった。

立ち上げたばかりということもあり、依頼された関連の仕事は、何でもすべて必死でこなした。運良く人から人へ、営業をしないのにお客様からのご紹介により、仕事の輪が広がっていった。さらに嬉しいことに“女性企業家”としても需要の波に乗り、新聞や雑誌、テレビ出演のオファーなどもいただき、苦しいことももちろんあったが、仕事自体は割と順調に進んでいった。

8年前、ヒラリー氏が初めて立候補したときは、父の介護の真っ最中だった。日本を離れ、自分の好き勝手ができる状況ではなかった。気持ちの変化があったのは、今から5年前、私は闘病中の父があまり長くないかもしれないと感じ、父と仲たがっていた長兄を呼び寄せ、父と会わせた。

長兄は東京大学を首席で卒業したものの、学生時代からプロのカメラマンという、父親が思ってもいなかった職に就いたこともあり、父とコミュニケーションを取らなくなって久しかった。

長兄は、あまり動けず弱った父を目の当たりにして、ショックを受けたようだった。また甲斐甲斐しく身の回りの世話をする私を見て、「お前は優しいなぁ。こんなになるまで、ほっておいて悪かった。これからはお前(私)に恩返しするから」と言った。初めて聞く、兄の褒め言葉と感謝や反省の弁。「そんなことを口にするなんて、おかしいんじゃない(笑)」などど揶揄したが、私はとても嬉しかった。それならと、ぎっくり腰になっていた私に代わって週1~2回、父の入浴介助をしてもらう約束を取り付けた。

兄は、その日一晩泊まって、翌朝仕事に出かけて行った。それが私が兄を見た最後となるなんて、誰が予想しただろう。兄はその翌日、彼の自宅マンションで急性心不全で他界した。46歳だった。発見されたのは、それから5日後だった。

《続く》

江木園貴(えぎ そのき)
国際イメージコンサルタント。大分県出身。米国大学留学後、米国テレビ製作会社日本支局入社、TV制作プロデューサー、MC&アナウンサーを経験。その後、衛星放送会社、音楽配信会社などの広報・PR/IRを経て、イメージコンサルティング会社、(株)プレゼランスを設立。アメリカの大学に留学時、偶然見たビル・クリントン氏の大統領選挙の演説の様子に感動し、大統領選挙並びに印象を良くすることに関して研究をはじめ、ロンドンやNYにてカラー、ファッションやヘアメイク、メディアコミュニケーションをはじめとするイメージコンサルティング全般を修得。アメリカにて国際イメージコンサルタントの資格取得。人生を変えるきっかけとなったクリントン氏に20年を経て恩返しするべく、1年間日本での仕事を休み、選挙ボランティアとして活動中。NY在住。