ビジネス : 第44回 人工知能 その4

第44回 人工知能 その4

第44回 人工知能 その4
 意識や心をもつ人工知能。これは現代のSFやアニメ、映画などの主要なテーマになっている。意識や心をもったAIがどういった振る舞いをするか? だいたいわからなくなるみたいです。自分は自分なのかどうか。

 この自分は本物の自分なのだろうか。サイボーグや電脳ではないのか。この記憶は作り物で偽装されているのではないか。自分の記憶と思っているけれど、本当は誰かの、某機関の所有物ではないのか。この現実はリアルなのかバーチャルなのか。すべては電脳空間で起こっていることではないのか。

 こうして果てしない自分探しがはじまる。その過程でいろんなことが起こる。それが小説になったりアニメになったり映画になったりしている。押井守の映画では、自分探しをするAIが「殻(shell)」という名で象徴的に呼ばれている。殻のなかは空っぽ(ghost)である。というわけで「GHOST IN THE SHELL 」か、なるほど。

 意識や心をもった人工知能は、自分がわからなくなる。自分を同定できなくなる。それはそうだろう。この自分はすべてアルゴリズムによって書かれているのではないだろうか、ということをアルゴリズムで書かれたAIが判定できるはずがない。

 ところでAIは、人間の脳や知能をシミュレートすることによって人間を模倣する。人間を模倣したAIが空っぽだということは、模倣される人間のほうも空っぽということにならないだろうか。


 すでに見たように、AIがやっていることは「再帰的分解」と呼ばれる作業である。大きくて複雑な問題は、小さくて単純な問題に分解してやる。たとえば人間の脳がおこなっている複雑なタスクは、より単純な過程に分解していく。最終的に0と1による単純な操作(二進法の演算)になるまで分解してやれば、チューリング・マシンによって計算可能なものになる。これが「再帰的分解」という考え方である。分ける、分解する。まさにデカルトだ。

 私が吟味する問題のおのおのを、できるかぎり多くの、しかもその問題を最もよく解くために必要なだけの数の、小部分に分かつこと。           
(デカルト『方法序説』野田又夫訳)


 この手続きをコンピュータは「考える」という活動について、超高速で繰り返し行うことができる。すると人間の意識や心と同じものができる、と「強いAI」を支持する研究者たちは考える。そこに立ち現れる意識や心は、「私は考える、ゆえに私はある」というデカルト的なコギトと似たものになるだろう。あるいは「私はこの私であることにおいて私である」という近代的自我と似たものに。こいつが空っぽなのである。「殻(shell)」なのである。

 人間としての「私」とデカルトが考えたような自我が、まったく別ものであることに注目しよう。近代的自我とは人間からのきわめて特殊な抽象に過ぎない。デカルトにかぎらず、パスカルやマルブランシュなど、このころの哲学者の多くはイエズス会などの修道会が経営する学校で学んだ人たちだ。その思考にはキリスト教のバイアスが強くかかっている。

つまり神の存在が織り込まれている。私が私にたいして観察者となることでデカルト的なコギト、近代的自我としての「私」が立ち現れる。この観察者問題には神の視線が偽装されている。

 ということでニーチェが登場する。周知のように、彼は神の死を宣明した。そして神が担保してくれなければ、「私」なるものは空っぽに過ぎないと看破して、気が狂ってしまった。彼の遺稿集にはつぎのような記述が見られる。

 あるがままの生存は、意味も目標もなく、しかもそれでいて不可避的に回帰しつつ、無に終わることもない。すなわち、“永遠回帰”。これがニヒリズムの極限的形式である。すなわち、無が(「無意味なもの」が)永遠に!
(渡邊二郎訳)


 無が、無意味なものが永遠に回帰する。ニーチェでなくても気が狂ってしまいそうだ。そもそもデカルトのコギトからして、冷静な気狂いみたいなものだ。実生活においてデカルトが狂わなかったのは、ニーチェにくらべて鈍感だったからだろう。

 心をもったAIの彷徨が示しているように、この自分、この私は空虚で空っぽな存在である。空虚で空っぽだから、何をもってしても充たされない。自己の欲望は果てしない。集めるために集める、食べるために食べる。飽食は飢餓と同じだ。いくら集めても、いくら食べても、飢えは癒されない。だからもっと集める、もっと食べる。私たちの欲望は増幅される。偽装され、書き換えられる。

 人間の歴史は常に飢えとの闘いだった。飢餓が常態だった。飢えている状態がデフォルトだった。過剰摂取に対抗する手段は装備していない。その必要がなかったからだ。肥満も強欲も過食症も飽食も根は同じだ。穀物や砂糖キビの栽培は糖質にたいするアディクションを生んだ。それがグローバル経済とハイテクノロジーによって、貨幣や情報にたいするアディクションに変換され、増幅されている。もっと欲しがれ、もっと欲しがれ。グローバル企業家たちもテロリストたちも私たちも、一様に煽られている。それが現在だ。


 先端医療の現場で行われていることは、かたちを変えた自分探しではないだろうか。この自分は本当の自分ではない。納得できる自分にたどり着くための彷徨がはじまる。意識をもったAIと同じように。異変をチェックして修復する、削除する。あるべき自分になるために。どんな自分なら満足するんだ?

 再帰的分解と特性とするAIが身をもって示してくれていること、「私はこの私において私である」という近代的自我のあり方は、果てしない自己言及を繰り返しながら虚無へ行き着きます。まさにニーチェが言うように、無が、無意味なものが、永遠に回帰する。

 古代において「私はこの私において私である」という生存のあり方がゆるされるのは、王ただ一人であった。その王は何をしたか? エジプトのファラオは巨大なピラミッドを建造させた。秦の始皇帝は、8000体の兵馬俑によって護られた地下宮殿において、死後も永遠に皇帝でありつづけることを望んだ。

彼らは自己に無限を上書きしようとしたわけだ。こうした欲望に応答するサービスは、いまではお金を出せば庶民でも買えるものになっている。無限の健康、無限の寿命……。王も私たちも同じ病を病んでいる。自己が自己でしかないことの病を。

 それは病なのだ。飢餓をデフォルトとして立ち上げられた人間に、宿痾のごとく取り憑いて離れない「自己」という病。この飢えは、この渇きは、この恐怖は、おれのものであっておまえのものではない、という自明性によって強固に信じられつづけてきた「私」という同一者。個々の「私」によってつくられてきた歴史、汝、殺すなかれ、奪うなかれ、犯すなかれというモーセの十戒とともにあった歴史、それがファラオや始皇帝の時代から現在までつづいている。そして目下、世界はテロリズムをはじめとする混乱に見舞われている。そのなかで私たちは惑星規模の悪役の登場やAIのシンギュラリティに怯えている。

 悲観と絶望に覆われた世界には、けれどもう一つ、透明な世界が上書きされている。

ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただろう
                              
(宮沢賢治「小岩井農場」部分)


 詩は透明な祈りだ。読み手の私たちがそれに色をつける。詩人が言いたかったことはこうだ。すでに滅びてしまった生き物たち、化石としてしか残っていない彼らにたいして、「遠いともだち」という感覚を抱きうる、そのような生き物で人間はある。自分たちが生きている世界に存在するあらゆるものを、親密な身内として感受することのできる、人間とは本来、そのような生き物だ。

 詩人が透明な祈りのなかに見た人間を、私たちも構想しよう。その人間をAIに模倣させよう。たとえシンギュラリティが最悪の結果をもたらし、AIによって人間が滅びたとしても、彼らが私たちのことを「遠いともだち」と思ってくれるなら、以て冥すべしではないだろうか。


●片山恭一(かたやま・きょういち)
1959年1月5日愛媛県宇和島市に生まれる。愛媛県立宇和島東高等学校卒業。
1977年九州大学農学部に入学。専攻は農業経済学。1981年同大学卒業、大学院に進む。1986年「気配」にて『文学界』新人賞受賞。1995年、『きみの知らないところで世界は動く』はじめての単行本にあたる。2001年刊行された『世界の中心で、愛をさけぶ』はミリオンセラーとなる。著作は最新刊の『なにもないことが多すぎる』(小学館)をはじめ、『船泊まりまで』 『生きることの発明』(ともに小学館文庫)評論『どこへ向かって死ぬか』(小学館文庫)『死をみつめ、生をひらく』(NHK出版新書)等多数。福岡市在住。
公式Webサイト:http://katayamakyoichi.com