ビジネス : 第42回 人工知能 その2

第42回 人工知能 その2

第42回 人工知能 その2
 人工知能(Artificial Intelligence)という言葉がはじめて登場したのは、1956年夏にダートマスで開かれたワークショップである。この会議には、「AI」という言葉の生みの親であるコンピュータ科学者ジョン・マッカーシーほか、マービン・ミンスキー、アレン・ニューウェル、ハーバート・サイモンといった著名な学者たちも参加した。

 AIの研究開発は、すでに1940年代からはじまっている。その発想はとても無邪気なものだ。人間の思考と同じものをマシンでつくることができるのではないか。人間の知能はコンピュータで実現できるのではないか。試行錯誤や紆余曲折はあったものの、大きな道筋としては、無邪気な夢を追って研究開発は進められてきた。

 人工知能とは何か? 曰く、人間の頭脳活動を極限までシミュレートするシステムである。また曰く、究極には人間と区別がつかない人間的な知能である。あるいは曰く、人工的につくられた人間のような知能、ないしはそれをつくる技術である。このあたりが専門家による人工知能の定義になっているようだ。

人間は特別なものではなく、人間の知能と同じものはコンピュータによってつくることができる。AIによって実現される人間の知能は、オリジナルの人間よりもはるかに効率的なものなので、確実にオリジナルを超えていく。それが2045年のシンギュラリティと言っていいだろう。

 
 脳はコンピュータであり、まずおそらくは万能チューリング・マシンである。プログラムを走らせることでアルゴリズムを実行するように、私たちが心と呼んでいるものは、一つのプログラムもしくは複数のプログラムの組み合わせなのである。人間の認知能力を理解するために唯一必要なことは、知覚や記憶といった人間が認知能力を発揮するさいに実行しているプログラムを発見することだ。(中略)プログラムを動かすために必要な安定性と資源さえあれば、人間の心に相当するものができるだろう。人間はチューリング・マシンなのだから、複雑な演算をそれ以上分解できない単純な演算――0と1の演算――へと分解すれば認知を理解できるだろう。
              
(ジョン・サール『心の哲学』山本貴光・吉川浩満訳 朝日出版社)


 著者のジョン・サールは「強いAI」という言葉を発案した哲学者である。脳で実行されているプログラムを発見することによって、人間の心に相当するものを作ることができる。正しいプログラムを実行させれば、人間が心をもつのとまったく同じ意味で、コンピュータは心をもつ。これが「強いAI」の考え方だ。

 引用文のなかに出てくるチューリング・マシンとは、二種類の記号(0と1)を使って計算を行う装置のことで、アラン・チューリング(1912〜1954)が考案した。このチューリング・マシンをめぐっては、後にアロンゾ・チャーチ(1903〜1995)が、アルゴリズムで解決されるものなら、どんな問題でもチューリング・マシンで解けるという、有名な「チャーチのテーゼ」を提唱したことも付け加えておこう。

 ここから当然、つぎのような考え方が生まれてくる。もし人間の思考を計算可能なアルゴリズムで表現できるなら、コンピュータはそれを再現できるはずだ。なぜなら計算可能な関数はすべてチューリング・マシンで計算可能だからだ。もし人間の思考が何らかの「計算」であるなら、同じことをコンピュータは瞬時にやってしまうだろう。このプロセスを超高速で無限に繰り返すと、やがて人間の「意識」と呼んでもいいような状態が出現するのではないか。

 私の考えでは、特徴量を生成していく段階で思考する必要があり、その中で自分自身の状態を再帰的に認識すること、つまり自分が考えているということを自分でわかっているという「入れ子構造」が無限に続くこと、その際、それを「意識」と呼んでもいいような状態が出現するのではないかと思う。
(松尾豊『人工知能は人間を超えるか』角川選書)

                       
 ここで「特徴量」という言葉について少し説明しておこう。あるタスクを実行するために、「関係のある知識だけを取り出して使う」という、人間ならごく当たり前にやっている作業が、AIにはとても難しい。これまで人工知能が実現しなかったのは、「世界からどの特徴に注目して情報を取り出すべきか」にかんて、人間の手を借りなければならなかったからだ。従来は「特徴量(特徴ベクトル)」と呼ばれる変数を、人間(データ・サイエンティスト)が指定してやることでコンピュータを動かしていた。

 ところが近年、「ディープラーニング」と呼ばれる新しい機械学習の方法が開発されることにより、この難関にブレークスルーが起ころうとしている。2006年ごろというから、本当に最近のことだ。脳科学の研究成果(大脳視覚野の情報処理メカニズムなど)がAI開発に本格的に応用され、音声や画像を認識するためのパターン認識力を飛躍的に高めることに成功した。その結果、コンピュータが自分で勝手に大量のデータから注目すべき特徴を見つけ、問題を解く上で本質的に重要なポイント(変数)を探し出してくることができるようになった。

 
いったん人工知能のアルゴリズムが実現すれば、人間の知能を大きく凌駕する人工知能が登場するのは想像に難くない。少なくとも、私の定義では、特徴量を学習する能力と、特徴量を使ったモデル獲得の能力が、人間よりもきわめて高いコンピュータは実現可能であり、与えられた予測問題を人間よりもより正確に解くことができるはずである。それは人間から見ても、きわめて知的に映るはずだ。
(松尾豊 前掲書)


 ここは村上春樹でなくても「やれやれ」と言いたくなるところだ。なんという単純化。人間の思考の、というより「人間」そのものの。

 まず人間の脳は電気回路と同じだという前提がある。人間の脳は神経細胞のあいだを電気信号が行き来している複雑な電気回路であるというわけだ。この電気回路はコンピュータのCPU(中央演算処理装置)と同じように計算を行う。人間の脳は電気回路を流れる信号によって計算を行うコンピュータとみなしうる。よって人間の思考はコンピュータで実現できる。

仮に「自我をもち、まわりを認識して行動する」プログラムをつくることができれば、人間のすべての脳の活動(思考、認識、記憶、感情など)はコンピュータで実現できる。

 三段論法的にまとめると、つぎのようになる。

 ①人間の脳は電気回路である。
 ②人間の脳はコンピュータのCPUと同じように計算を行う。
 ③よって人間の脳の活動はコンピュータで実現できる。

 人間の脳→電気回路→計算可能→コンピュータで実現可能。こうした単純化の手続きを経て、最終的に人間の思考や心は0と1、イエスかノーによって再現可能になる。そして人間の知能と同じものをコンピュータでつくることができれば、人間の知能を人工知能が実現したと考えてもいいだろう、という論法だ。

 是非はさておき、AIの研究開発における単純化は、私たちが生きている「わかりやすい世界」と同型であることを強く感じる。別の言い方をすると、人工知能が向かっているのは、お金がすべて、スピードがすべて、効率がすべて、勝ち負けがすべて……といった適者生存の原理に貫かれた、1パーセントと99パーセントの「わかりやすい世界」ではないだろうか。

同じ進化の方向性やデザインは、勝利するという共通のゴールを目指す人のさまざまな集団で別個に現れる。本当の目的は速度ではなく勝つことで、勝つとは社会的地位を上げること、より良い暮らしをし、より長く生きること、そしてより遠くへ移動することだ。その目的は人生そのもので、その背後にあるのは、生きたいという衝動だ。その衝動は保存(あるいは自己保存)の本能としても知られ、何ものにも優る。
    
(エイドリアン・ベジャン『流れとかたち』柴田裕之訳 紀伊國屋書店)


 グローバル経済とコンピュータ・サイエンスによって、わかりやすいものだけになってしまった世界。わかりやすいものを基準に再編成されようとしている世界。こうした流れにたいする応答として、たとえば自爆テロというわかりやすい反応が起こってきている。単純化され、わかりやすくなった世界。可視化され、実体化されるものだけが存在を許される世界。それがテロの脅威とAIの脅威を、ともに生んでいる気がする。


●片山恭一(かたやま・きょういち)
1959年1月5日愛媛県宇和島市に生まれる。愛媛県立宇和島東高等学校卒業。
1977年九州大学農学部に入学。専攻は農業経済学。1981年同大学卒業、大学院に進む。1986年「気配」にて『文学界』新人賞受賞。1995年、『きみの知らないところで世界は動く』はじめての単行本にあたる。2001年刊行された『世界の中心で、愛をさけぶ』はミリオンセラーとなる。著作は最新刊の『なにもないことが多すぎる』(小学館)をはじめ、『船泊まりまで』 『生きることの発明』(ともに小学館文庫)評論『どこへ向かって死ぬか』(小学館文庫)『死をみつめ、生をひらく』(NHK出版新書)等多数。福岡市在住。
公式Webサイト:http://katayamakyoichi.com