ビジネス : 第40回 集団的自衛権 その4

第40回 集団的自衛権 その4

第40回 集団的自衛権 その4
 現在、最優先の脅威として位置づけられるのはグローバル・テロリズムである。グローバル化したテロリズムに、いかに対処するか。「われわれは人類の敵を二つのカテゴリーで捉えなければならなくなりました」と伊勢崎賢治さんは述べている(『新国防論』)。

 一つは旧来の「まともな敵」である。どんな独裁国家であっても、国民や国連にたいしてレジティマシー(法的な正統性)を提示しようとする意思がいくらかでもあるかぎり「まとも」である。この基準からすると、イランも北朝鮮も「まともな敵」である。

一方、イスラム国に代表される新興勢力や、アルカイダなどの武力組織には、国際法のような共通言語がない。兵士の行動をある程度まで規制する国際交戦規定や、捕虜や傷病者の扱いを定めたジュネーブ条約といった「常識」が通じない。いわば「まともじゃない敵」である。

 こうした「まともじゃない敵」に対処するために、アメリカでさえ戦略マニュアルの書き換えを強いられている。2001年の同時多発テロをきっかけに、アメリカがNATOをはじめとする国々に呼びかけてはじまったアフガニスタンへの空爆と侵攻は、民衆を敵にまわしてしまったことで戦況を泥沼化させ、米軍の軍事的な敗走という結果に終わる。

グローバル・テロリズムという敵が、通常戦力では殲滅できる相手でないことを、アメリカとNATOという地球上最強の軍事力が証明してしまったわけだ。

 イスラム国をはじめとして、こうしたグローバル・テロリズムはインターネットというOSを使い、世界中に拡散しつつある。しかも武力で制圧するほどに、テロは広がる。このことから、ただちに日本が直面する二つのリスクについて見てみよう。

1.「中国の脅威」を煽ることによって生まれる脅威。
 中国は国連の常任理事国であり、いわば国際法の運用の頂点に君臨する「手練れ」である。そして国際法において認められた武力行使は「自衛」しかない。個別的自衛権にしても集団的自衛権にしても、まず自分か、自分の仲間が武力攻撃を受けなければならない。自衛隊が撃たない限り、中国が自ら「軍事的脅威」になるようなヘマはしない。中国が正真正銘の脅威になるのは、自衛隊が出ていくときである。このときは日本が武力を行使した、つまり侵略したと説明できるから、中国が個別的自衛権を行使する言い訳が成り立つ。

 もともと日本は国連憲章53条が定める「敵国条項」に縛られており、第二次世界大戦における旧敵国(日本とドイツ)の武力行使にたいしては、安保理五大国の一致など関係なく無制限・無制約に武力的制裁を課すことができる。中国はこの条項を運用できる国であり、日本はボコボコにされても文句を言えない国である。前提からして、対等に戦える相手ではないのだ。

 中国の非軍事的な挑発にたいして絶対に自衛隊で対処しないということを鉄則にすれば、中国は日本を「侵略」できない。実際に侵略もしていない中国を「軍事的脅威」と見なすのは間違っている。「中国の脅威」のために軍事的なプレゼンスを増やすことで、日本が標的にするに足る国だと覚醒させる可能性が高まる。「敵を増やすリスク」が飛躍的に増大する。「中国の脅威」への対処が、めぐりめぐって日本の国防上の別の脅威をつくっていく。

2.国防上の原発の問題。
 国土の周囲に無防備な原発を並べた日本のあり方を、伊勢崎さんは「自らの腹を掻っ捌いて臓物を敵に露出しているようなもの」と述べている。こうした原発は、稼働するか否かにかかわらず、テロリストが標的にしたらひとたまりもない。この脅威は、ほとんど未来永劫にわたってつづく。自衛隊を海外へ派遣している暇などないはずだ。

 原子力施設への攻撃を企てるのは十人くらいの軽武装のチームかもしれない。彼らが施設を急襲して制圧し、電源を止めてしまえば、簡単に原発をメルトダウンさせることができる。「電源喪失」で甚大な被害が発生することを、福島の事故は全世界に明確に示してしまった。「グローバル・テロリズムの時代において、廃炉、廃炉作業中の原子炉が潜在的に持つ脅威は、核兵器と同じ」であることを、伊勢崎さんは強調している。

 世界各地で頻発しているテロは、もはや対岸の火事では済まされない。日本はテロの格好の標的となる原発を、「臓物を敵に露出している」状態で放置している。しかもグローバル・テロリズムが最大最強の敵として照準を合わせているアメリカを、軍事基地というかたちで体内に宿している。これほどテロの脅威に曝されている国は、世界中探しても少ないだろう。

 とくに日本という国が恨みを買わなくても、テロリストはやって来るかもしれない。世界を壊滅させるために、人類を滅亡させるために。いまのISのテロなどを見ていると、何か目的をもってやっているという感じはしない。「カリフ制の復活」など、ただの名目か飾りに過ぎないという印象を受ける。イスラム教も、本当は関係ないのではないか。

 もっと気味の悪い情動を、彼らのやり方には感じる。底知れぬニヒリズムのようなもの。私たちが相手にしているのは、善悪の彼岸にいるような連中かもしれないのだ。細菌兵器をばら撒く、治療不可能なウイルスを放つ。何が起こっても不思議はないという気がする。

 いちばん手っ取り早いのは、脆弱な日本の原発をメルトダウンさせることだろう。そうすれば日本国内のアメリカ軍は、すべて出て行かざるを得なくなる。普天間基地の移設問題どころの騒ぎではない。地球は広範に汚染され、北半球の多くの地域は人が住めなくなるかもしれない。こうした不気味な破滅願望にたいしては、もちろん伊勢崎さんの国防論も届いていない。それは彼の守備範囲を超えている。私たちが新たに考えなければならないことだ。

  世界はじつのところ、もうタガがはずれ底がぬけてしまっていること。かつては十年単位くらいで変貌していた世界が、いまは数ヵ月か数週間でせわしなく変容していること。世界内存在が根底からこわれているかもしれないこと。人間が在ることの根拠(または世界の根拠)も失せていると感じられること。おそらく「時間」もこわれてしまっているのだろうこと。時間は、ひょっとしたら、未来にではなく、過去にむかって逆むきにうつろっているかもしれないこと。古代へ、原始へ……。
(辺見庸『1★9★3★7』金曜日)



 すでに世界は、人類は、未知の段階に入っていると考えたほうがいい。どんな既存の理念や思想も、いま進行しつつある事態にたいする処方箋をもっていない。もちろんヨーロッパの近代に由来する人権や民主主義といった理念では歯が立たない。

 いったい何が起こっているのか。いま世界で広範に進行しつつあること、深くうごめいている事態を言い表す言葉さえ、私たちはもっていないのだ。未知なる世界に届く、新しい考え方、新しい「ことば」をつくり出すしかないように思う。


●片山恭一(かたやま・きょういち)
1959年1月5日愛媛県宇和島市に生まれる。愛媛県立宇和島東高等学校卒業。
1977年九州大学農学部に入学。専攻は農業経済学。1981年同大学卒業、大学院に進む。1986年「気配」にて『文学界』新人賞受賞。1995年、『きみの知らないところで世界は動く』はじめての単行本にあたる。2001年刊行された『世界の中心で、愛をさけぶ』はミリオンセラーとなる。著作は最新刊の『なにもないことが多すぎる』(小学館)をはじめ、『船泊まりまで』 『生きることの発明』(ともに小学館文庫)評論『どこへ向かって死ぬか』(小学館文庫)『死をみつめ、生をひらく』(NHK出版新書)等多数。福岡市在住。