ビジネス : 第38回 集団的自衛権 その2

第38回 集団的自衛権 その2

第38回 集団的自衛権 その2
 一応の概念整理が終わったところで、先ごろ施行された安全保障関連法の問題が、どこにあるのかということを考えてみる。ポイントは集団的自衛権と個別的自衛権は、ともに自衛権であるということだろう。同じ自衛権だから、両者のあいだの線引きが難しい。

 日本では2003年に武力攻撃事態法というものができて、一応、個別的自衛権を行使する前提を法制化していた。そこでは①武力攻撃事態(実際に日本が攻撃を受けた)、②切迫事態(明白な危険が近づいている)、③予測事態(攻撃が予測される)という三つの事態が想定されているが、これに今回「存立危機事態」というものが加わった。

 存立危機事態……わが国に対する武力攻撃が生じたこと、またはわが国と密接な関係にある他国に武力攻撃が生じ、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること

 文中に見える「わが国と密接な関係にある他国」とは、言うまでもなくアメリカである。アメリカが攻撃されることは、日本にとっても「国家存立危機事態」を意味する。よってアメリカに協力して自衛隊を派遣する、といった理屈が通ってしまうことになる。

 しかし何をもって存立危機とみなすかは、きわめて恣意的である。たとえば2001年の同時多発テロのようにアメリカが攻撃された。当然、アメリカと緊密な関係にある日本も狙われるだろう……ということも、存立危機事態とみなすことができる。するとアメリカがイラクではじめた戦争に、個別的自衛権の延長としての集団的自衛権の行使として、自衛隊が派遣されるといった事態も想定される。

 日本の常識は世界の非常識、という言い方を伊勢崎さんはしている。現状を知らずに憲法論議をしても空理空論にしかならない、ということだろう。私自身、いまPKOの現場がどうなっているかについて、何も知らなかった。知ろうとしなかった。関心がなかった。伊勢崎さんの本を読んで、「これはいかん」と慌てているところである。

多くの国民が似たようなものではないかと推測される。一人でも多くの人に、伊勢崎さんの本を読んでもらいたいと思う。

 私がPKOから思い浮かべるのは、選挙監視や休戦・停戦の監視といったものだった。要するに争いごとの仲介。両者のあいだに入っていき、「まあまあ」と宥めてとりあえず銃を下ろさせる。名前も「平和維持活動」だしね。

 たしかに20年前は、それでよかった。当初、国連PKOは「敵のいない軍隊」という位置づけだった。そもそもPKOとは受け入れ国(紛争当事国)の合意を得たうえで、国連加盟国が有志で参加するものである。その活動内容は、国際紛争の防止、拡大の予防、休戦・停戦の監視、治安維持、選挙監視といったものが主だった。仮に停戦合意が破られた場合は、国連が「紛争の当事者」になることを避けるために撤退する、という方針をとっていた。

 ところが1994年に、いわゆるルワンダの悲劇が起こる。大虐殺の背景には、フツ族とツチ族の歴史的な対立がある。当時政権を握っていたのは多数派のフツ族で、少数派のツチ族は、植民地時代には宗主国ベルギーから優遇されて分割統治の道具にされていた。

しかし独立後に民主主義が導入され、多数派のフツ族が政権につくようになると、積年の恨みがツチ族の排除というかたちで表面化する。一方のツチ族は、反政府勢力としてゲリラ化し、フツ族と対立する。

 こうして政府と反政府勢力のあいだに内戦が起こる。やっと停戦になったところで、中立な武力として国連PKOが入る。和平合意につなげるための停戦監視が目的だった。

ところが、その停戦合意がPKOの目の前で破られる。フツ族出身の大統領が乗った飛行機の撃墜事件をきっかけに、住民の暴動が起こったのである。扇動された人々が、手に手に棍棒やナタを持ってツチ族を虐殺しはじめる。

 目の前で住民が殺し合っている。とくに多数派のフツ族が、少数派のツチ族にたいして襲いかかる。フツ族は政権側である。政権側が悪いことをしている。現場にいたPKOは、国連本部にたいして行動を起こさせて欲しいと要請する。しかし国連本部は、PKOの中立性が失われるということで要請を却下する。PKOのマンデート(任務と権限)は、あくまで中立な立場としての停戦監視であるというわけだ。

 その結果、100日間で100万人が殺されるという大惨事になる。1日に1万人だ。殺されつづける住民たちを、PKOは「見殺し」にするしかなかった。

この事件をきっかけに、国連のなかに「保護する責任」という考え方が生まれる。ある国家が自国民の保護の義務を果たす能力や意思がない場合、国際社会全体がその国家に代わって国民を「保護する責任」を負うべきである。

 こうして当事国の同意や停戦合意とは関係なく、「住民を保護する」ことがPKOの最優先任務とされるようになってくる。ルワンダのように国家が住民を虐殺している場合は、国連が本来の国家に代わって「武力行使」する。住民を攻撃する勢力にたいしては、たとえ自分たちが攻撃されていなくても武力を行使する。

 国民に降りかかる脅威を、その国家に変わって除去する。通常の自衛戦のように交戦権を行使し「戦争」する。それがPKOの任務になっている。日本が参加している南スーダンのPKOなどもこれにあたる。さらに2010年に始まったコンゴのPKOでは、武装勢力が住民に危害を加える前に殲滅しろということで、先制攻撃をするための特殊部隊までが承認された。

 こうした現場に自衛隊は派遣されてきたし、いまも派遣されている。安全保障関連法の施行によって、今後は任務を拡大して、より危険な地域へ派遣されようとしている。

ところが軍事組織としての法的地位が与えられていない自衛隊員の場合、仮に捕虜になってもジュネーブ条約上の捕虜としての扱いを受けられず、また軍事的過失(誤って民間人や子どもを殺傷してしまう、など)にたいしては、隊員個人が犯罪としての責任を追うことになる。

こうした現状を放置して、自衛隊を海外へ派遣すべきではない、と伊勢崎さんは言っている。正論だと思う。

●片山恭一(かたやま・きょういち)
1959年1月5日愛媛県宇和島市に生まれる。愛媛県立宇和島東高等学校卒業。
1977年九州大学農学部に入学。専攻は農業経済学。1981年同大学卒業、大学院に進む。1986年「気配」にて『文学界』新人賞受賞。1995年、『きみの知らないところで世界は動く』はじめての単行本にあたる。2001年刊行された『世界の中心で、愛をさけぶ』はミリオンセラーとなる。著作は最新刊の『なにもないことが多すぎる』(小学館)をはじめ、『船泊まりまで』 『生きることの発明』(ともに小学館文庫)評論『どこへ向かって死ぬか』(小学館文庫)『死をみつめ、生をひらく』(NHK出版新書)等多数。福岡市在住。