ビジネス : 第37回 集団的自衛権 その1

第37回 集団的自衛権 その1

第37回 集団的自衛権 その1
 いわゆる「護憲」という考え方には違和感がある。〈戦争は嫌だ→平和を守れ→戦後日本の平和は憲法9条によって守られてきた→憲法を守れ〉といった主張には、あまり与したくない。戦力の不保持と交戦権の否認を明確に謳った憲法9条の理念は大切なものだと思う。だからこそ、一国の平和を守るため、という議論に矮小化してはならないと考える。

 国際NGOスタッフとしてアフリカ各地で活動後、東ティモール、シエラレオネ、アフガニスタンで紛争処理を指揮してきた伊勢崎賢治さんは、「何が平和への脅威って言ったら、9条護憲派が9条下で日本が犯してきた戦争を自覚することなく日本の平和は9条のおかげって信じていること」(2016年2月25日)とツイートで述べている。

 私が思うに伊勢崎さんは、いま日本国民がいちばん耳を傾けるべき論者である。彼の著作(主に『新国防論』)と、インターネット上に公開されている講演などを参考にして、安全保障をめぐる世界情勢の変化と、日本の国防のあり方について考えてみたいと思う。

 まず現状確認をしておこう。これまでも自衛隊は憲法9条の下で、その条文を一字一句変えることなく海外に派遣され、アメリカなどの軍事活動に協力してきた。

(事例1)小泉政権はNATOという軍事同盟(というか、ほとんどアメリカ単独)の軍事行動であるイラク戦争に、自衛隊を派遣してインド洋での補油活動を行わせた。これは明白な集団的自衛権の行使であり、9条下で違憲とされている「武力の行使」に該当する。
(事例2)その2年後のイラク派遣は、NATOの内部にさえアメリカの開戦を疑問視する声があったにもかかわらず(参戦したのはイギリスをはじめとする数ヵ国だけ)、加盟国でもない日本が「参戦」した。いずれの場合も政府は「特別措置法」という虚偽を使って違憲行為を切り抜けてきた。
(事例3)民主党政権下では、「邦人保護」という名目でソマリア沖の海賊対策に自衛隊が派遣された。これは国連承認の集団安全保障であり、「国益」のためというのは本来の趣旨に反する。
(事例4)やはり民主党政権のときに、南スーダンへの自衛隊派遣を決定された。これは国連のPKO(平和維持活動)への参加というかたちで進められたが、現在のPKOのマンデート(権限と任務)は「住民の保護のために紛争の当事者になる」こと、言い換えれば、「交戦主体として積極的に戦え」というものになっており、PKOへの参加自体が交戦権を否認する憲法9条に反する。

以上のように、改憲の論議とも護憲の論議とも関係なく、憲法はすでに実質的に改憲されている。つまり憲法9条のおかげで平和が維持できたというのは嘘である。日本が戦争に巻き込まれなかったのは、ただ運が良かっただけである。たまたま甚大な被害が出ていないだけで、これからは間違いなく人的被害が出る。こうした現実を、国民は認識すべきである。

 民主党政権も含めて、日本政府が長年つづけてきたごまかしを、安倍政権は「見えるもの」にしてくれた。安倍首相があらためて「憲法を改正するぞ」と公言してくれたおかげで実態が可視化された。この点は安倍晋三氏(の愚直さ)に感謝すべきである。たしかに「反安倍」や「戦争反対」はわかりやすいが、こうしたわかりやすさによって、大事な問題がスルーされている。

 たとえば集団的自衛権について、安倍首相をはじめとして、ほとんどの人が正確に理解していないのではないかと思う。私も同様である。2014年7月、集団的自衛権の行使が閣議決定されたあとの記者会見で、安倍首相がパネルを使っておこなった説明が、いかにデタラメなものであったか。伊勢崎さんは近著(『新国防論』)のなかで、「なんじゃこりゃと、思わずコーヒーカップを落としそうになりました」と述べている。

 一国の首相が「なんじゃこりゃ」では困る。その首相を批判する人たちが「なんじゃこりゃ」では、ますます困る。まずは概念整理からしておこう。

①個別的自衛権
自国が攻撃を受けたら反撃できる。
②集団的安全保障(国連的措置=PKO)
 ある国に降りかかった脅威を、加盟国全体の脅威とみなす。その脅威に共感しなくても、契約の上での義務なので、なんらかの貢献をしなくてはならない。
③集団的自衛権
同盟関係にある他国が攻撃されたときに反撃する。国連的措置までの暫定的行使として認められている。

 ①の個別的自衛権と③の集団的自衛権は、いずれも「自衛権」という権利である。自国ないしは同盟国が、どこかの国に侵略されたときに反撃できる。ただし条件があり、国連安保理が決める国連的措置(集団安全保障)までの暫定的行使ということになっている。つまり国連が入ってくるまでの時間に、個別的または集団的という二つの自衛権を使ってもいい、ということである。集団安全保障の行動の前に手遅れになっては困る、ということで暫定的に武力を振るう行為が許可されている。

 国際法の考え方では、個別的自衛権と集団的自衛権にあまり違いはない。たとえば2001年の同時多発テロにおいて本土攻撃をされたアメリカは、アルカイダを囲っていたアフガニスタンのタリバン政権に、個別的自衛権による報復活動を行った。同様に、イスラム教徒の移民を抱えているEUを中心としたNATOは、自分たちもアルカイダによるテロの脅威を共有している、ということで集団的自衛権の行使をした。

 これら二つの自衛権を行使する場合に距離は関係ない。先に攻撃を受ける。すると個別的自衛権の行使で、何千キロも離れたところに出かけて行って敵を殲滅し、占領統治までできる。これが国際法でいう個別的自衛権である。仲間を募って同じことをやれば、集団的自衛権の行使になる。国連憲章ではそれぞれ「Individual & Collective Self-Defense」となっており、どちらも「Self-Defense」である。

 これにたいして集団安全保障というのは、国連という組合に属する組合員としての義務である。加盟国であるかぎり、参加する義務を負っている。日本人にとって、直接関係のない国であっても助けに行く。本質的に「他国防衛」である。したがって邦人保護といった「国益」のために自衛隊をPKO(集団的安全保障)に参加させる、といった政府の説明はとんでもない虚偽である。国際社会では間違いなく顰蹙をかう。


●片山恭一(かたやま・きょういち)
1959年1月5日愛媛県宇和島市に生まれる。愛媛県立宇和島東高等学校卒業。
1977年九州大学農学部に入学。専攻は農業経済学。1981年同大学卒業、大学院に進む。1986年「気配」にて『文学界』新人賞受賞。1995年、『きみの知らないところで世界は動く』はじめての単行本にあたる。2001年刊行された『世界の中心で、愛をさけぶ』はミリオンセラーとなる。著作は最新刊の『なにもないことが多すぎる』(小学館)をはじめ、『船泊まりまで』 『生きることの発明』(ともに小学館文庫)評論『どこへ向かって死ぬか』(小学館文庫)『死をみつめ、生をひらく』(NHK出版新書)等多数。福岡市在住。