ビジネス : 第35回 内包親族 その3

第35回 内包親族 その3

第35回 内包親族 その3
「お別れね」と彼女は言った。「でも、悲しまないでね」
  ぼくは力なく首を振った。
「わたしの身体がここにないことを除けば、悲しむことなんて何もないんだから」しばらく間を置いて彼女はつづけた。「天国はやっぱりあるような気がするの。なんだか、ここがもう天国だという気がしてきた」
「ぼくもすぐに行くから」ようやくそれだけ口にすると、
「待ってる」アキはいかにも儚げに微笑んだ。「でも、あまり早く来なくていいわよ。ここからいなくなっても、いつも一緒にいるから」
「わかってる」
「またわたしを見つけてね」
「すぐに見つけるさ」
(片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』小学館)


 ここでも二人だけの秘密の約束が交わされている。出来・不出来を別にすれば、近代以降の小説は、こうした約束の場面を、手を替え品を替え書きつづけてきたと言える。

見ず知らずの男女が、ふとしたきっかけで出会う。いろいろなことが起こる。様々な障害、驚くべき事件が二人を待ち受ける。結果的に、うまくいったりいかなかったりする。たいていうまくいかない。うまくいきそうになると、死が二人の仲を引き裂いたりする。悲恋。まあ、そんなものだ、近代文学というのは。「バンザイ! 君に会えてよかった。このまま、ずっと、ずっと、死ぬまでハッピー」(©ウルフルズ)では、ポップスにはなっても文学にはならない。なりにくい。

 表面的にはいろいろあるわけだけれど、いちばん奥まったところで世界中の恋人たちを駆動させているのは、二人だけの秘密の約束を交わしたいという情動である。別の言い方をすれば、ずっと一緒にいたいという気持ちは、万人のなかに眠っている。それが誰か特定の他者と出会うことによって目覚める。励起する。揺さぶり起こされる。

こうして出会った二人は、秘密の約束が交わされる場所をめざす。その場所をめざして、男も女も生きる。生きるというよりも、生かされている。そうとは知らずに生きてしまっている。

 気がつくと、その場所に来ている。「またわたしを見つけてね」「すぐに見つけるさ」。『リトル・トリー』の祖父と孫のあいだに起こったことと、同じことがここでも起こっている。文化も伝統も時代も違う。人種も年齢も違う。でも起こっていることは同じだ。同じように、二人だけの秘密の約束が交わされている。この約束が交わされる場所に、悪はない。空虚や孤独もない。あるのは「バンザイ! 君に会えてよかった」だけ。

 親の子であるわたしは家族の一員である。これは自然です。この家族をかりに天然家族と呼んでみる。あるとき未知の他者に惹かれ対をなし、子の親になるのは自然か。血縁からいえばこの親子は自然です。ではもともとは赤の他人である夫婦は自然か。こうやって順次、そのつど、一対の天然ではない自然をふくみながら家族は連綿としてつづいていきます。家族が連続するごとに一組ずつ未知の他者が組み込まれます。わたしたちはこのことを自然として受容していますが、ほんとうにそうでしょうか。ここでわたしが自然とみなすものは外延的な自然ということです。わたしは血縁を介さないある個人がべつのある個人と出会い対となるのは内包自然だと思います。
(森崎茂 ブログ『歩く浄土』33)


 いま私がここにいるということは、数万年にわたって家族が一度も途切れなかったということだ。誰かと誰かが一緒になって子どもが生まれ、その子どもが大人になって、また誰かと一緒になって子どもが生まれ……という過程が途切れずにつづいてきたから、私なる者がある。ところで何万年も途切れることなくつづいてきた家族の根幹をなすペア、世代ごとに生まれる一対の男女は、もともとは赤の他人である。お互いがお互いにとって未知の漂泊者、いわばバガボンド同士なのだ。

 私とは記号か? 馬鹿なことを言っちゃあいけない。私とは、バガボンド同士が交わした約束の産物である。私たち一人ひとりが、そうなのだ。

たとえば私の父方の祖父は船乗りで、たまたまお客として乗船していた祖母をナンパしたらしい。亡くなった父の遺品を整理していたら、そのことを記した祖母の手記みたいなものが出てきた。まさに漂泊者同士の出会い。その産物である私、という存在の耐えられない軽さ。この軽さは、軽いけれど深い。

 大雑把に十万年といわれる人類の歴史の、どの段階で家族が生まれたのかわからないが、私たちがヒトや人間の起源を考えるとき、すでに家族みたいなものが想定されている。以来、今日まで家族がなくなったことはない。人間の世界から家族が消えたことは一度としてない。これからもおそらくないだろう。

家族が消えない、なくならないということは、人間もなくならない、消えてしまわないということで、これほど心強い話はない。このありがたくも強固な人類存続の基盤をつくっている家族というものは、だがなんと、世代ごとに一対のバガボンドによってつくられ、維持され、引き継がれているのだ。

 偶然と気まぐれに左右されたバガボンド同士の出会い。これほどいい加減なものはない。このいい加減なものによって、私たちの知っている家族はありつづけている。すると一見いい加減なもの、不確かなもののなかに、もっとも確かなもの、もっとも本質的なものがある。そう考えるのが順当だろう。

でも、そこは見えない。見えないから、これまで私たちは、世代ごとにまったく未知の他者が繰り込まれることによって家族は更新することを、当たり前の自然として受容してきた。

 しかし同じ自然でも、親子という自然と、夫婦という自然とでは、まったく次元が異なる、と森崎さんは考える。この差異を主題化するために、親子のように血縁を介したつながりを「外延的な自然」と呼び、血縁を介しない個人と個人が出会ってペアをつくることを「内包自然」と呼んでいる。

 つまりこういうことだ。動物たちにも血縁としての自然、自然としての親子のつながりは強固なものとしてあり、たとえば親が自分の身を挺して子を守るといったことはしばしば起こる。だが雌雄のペアとしてのつながりが、親子という血縁によるつながりよりも強いものであることは、おそらくない。

一方、私たちは教えられたわけでもないのに、みんなそれを知っている。その証拠に、誰もが人を好きになる。好きになったその人と、親子以上に濃い関係をつくり、より深いつながりを生きてしまうことが間々ある。親子の別れが辛くて自殺することはないけれど、思い詰めた男女の心中は近松門左衛門以来、延々と歌舞伎・浄瑠璃のメインテーマでありつつけている。

 驚くべきことである。不思議なことである。スマホに没我している場合ではないぞ。もっと驚け。驚かなくてはならない。この不思議によって、ヒトラーとローマ教皇は兄弟になる。これだけでも驚くべきことだが、こんなのは序の口で、もっと、もっといろんなことになる。

たとえばアメリカを旅していた日本の女性と、ナヴァホ・インディアンの青年が恋に落ちる。幾多の困難を乗り越えて二人は夫婦になる。すると日本に住む彼女の家族と、アリゾナの居留地に住む青年の家族は親戚になる。さらに、もしも彼女がさる高貴な家のご出身なら、日本の天皇家と北米大陸のホピ族は遠い親戚になる。

 誰とでもくっついて仲良くなってしまう。それが人間だ。人が圧倒的に人である所以だ。親族も氏族も部族も国家も、関係ない。そんなものは易々と乗り越えてしまう。内包の自然は、グローバリゼーションよりも遥かにグローバルなのだ。この驚異を思い知れ!

 驚異は、別の面から見れば脅威でもある。こうした脅威から、氏族や部族や国家といった様々なレベルの共同性を守護するために、婚姻をめぐるタブーのような種々の禁制が生まれたのかもしれない。共同性が強固であるために、それは閉じていなければならない。共同性の外には常に死が迫っている。誰かと誰かが無闇にくっついて、共同性が外に向かって開いていくことは、共同性の存続そのものにかかわる。

こうして長い人類の歴史において、禁制と共同性は切っても切れぬ仲でありつづけた。そして共同体の内部の人々を、しばしば圧殺してきた。だからどんな共同性も、人々にとっては禍いなのだ。

 その歴史が書き換えられようとしている。新しい内包の歴史によって。二人だけの秘密の約束が交わされる場所から世界を構想する。新しい人のつながりをイメージする。その場所を、表現の意識として取り出す。

宮沢賢治は「互ひに相犯さない明るい世界」を、「誰もが遠い友だち」である世界として構想した。内包親族論の言い方では、七十億の人類、誰もが無限小の可能性として親族である。そんな世界が、現実の目に見える世界を包むようにして、透明に上書きされている。

「内包」という言葉を知っているだけで、世界は明るくなる。それは言葉を呑み込んだ私の生が光を発し、世界を明るく照らしはじめるからだ。光を放つのは、私たち一人ひとりだ。無数の光を反射して、透明だった世界が発色をはじめる。この文章で私が語りたい、もう一つの不思議。

●片山恭一(かたやま・きょういち)
1959年1月5日愛媛県宇和島市に生まれる。愛媛県立宇和島東高等学校卒業。
1977年九州大学農学部に入学。専攻は農業経済学。1981年同大学卒業、大学院に進む。1986年「気配」にて『文学界』新人賞受賞。1995年、『きみの知らないところで世界は動く』はじめての単行本にあたる。2001年刊行された『世界の中心で、愛をさけぶ』はミリオンセラーとなる。著作は『船泊まりまで』 『生きることの発明』(ともに小学館文庫)評論『どこへ向かって死ぬか』(小学館文庫)『死をみつめ、生をひらく』(NHK出版新書)等多数。福岡市在住。