ビジネス : 第2回 華やかな記者生活は下積みからスタート

第2回 華やかな記者生活は下積みからスタート

第2回 華やかな記者生活は下積みからスタート
 私は1975年、横浜在住の出版社勤務の父の第一子として生まれました。3歳の頃、千葉県佐倉市に父が家を購入したのに伴い転居します。
 早熟だった私は小学2年の頃には日本史に興味を持ち、大河ドラマを毎週欠かさず見ていました。小学生の割に博識だった反面、算数が大の苦手。中学受験、高校受験も失敗し、結局、都内の進学校ではない私立高校に進学します。悔しさから一念発起して大学受験は、得意の文系科目に集中して勉強し、偏差値を40台から70台にアップ。一浪したものの、自分の高校では約10 年ぶりの合格となる早稲田大学法学部に進学します。
 父親の影響もあってマスコミ志望だった私は、放送研究会というサークルに所属。学生時代は大学の講義そっちのけで発表会向けのドラマ制作等に勤しんでいました。時代は、就職氷河期で、マスコミは今よりも人気業種でしたが、なんとか、最大部数を誇る読売新聞社に記者として入ることができました。
 こう書くと中学高校で落ちこぼれたところから「逆転」でのサクセスストーリーのようにも思われそうですが、勉強だけで道を切り開ける学生時代までと違い、社会は甘くありません。まして新聞社は、まるで「徒弟制度」とも言えるような典型的な年功序列、終身雇用の日本型企業社会のエッセンスを凝縮した独特の厳しさが待ち受けていました。
 ご承知の方も多いでしょうが、全国紙の新聞記者の大半はいきなり東京や大阪の本社に勤務することはなく、本社での研修を終えた後は5〜7年ほど、地方支局に配属されます。各地方にはそれぞれ県庁、県議会、市役所や町村役場、各市町村議会、地方検察庁、警察本部等の公的機関がありますが、これらは霞が関や永田町の縮図でもあります。将来、政治部や社会部等の記者として活躍するために、まずは地方で記者としての取材力、執筆力、企画力の基礎をみっちり鍛えられるわけです。
 私は2000年4月に和歌山支局に配属されましたが、初日に初めて書いた記事は電柱に乗用車が激突して運転者が死亡した単独事故のニュース。警察署の広報文を元に電話で、当直責任者に取材し、スクラップにある同様の事件事故の記事を参考にしながら先輩に提出したのですが、「これは車の右側がぶつかったのか?左側がぶつかったのか?」と随分マニアックな問いかけをされます。まさか、そんなことまで聞かれると思わなかったので呆然としていると、「すぐ確認しろ」と関西弁で手厳しくダメ出しされました。
 事件性がなく、著名人が絡んだわけでもない単独事故なので、いわゆる紙面の扱いは「ベタ記事」。全部で10数行ほどの短さなので、車のどの部分がぶつかったかまでは記述されません。今思えば、おそらく先輩が言いたかったことは、「どんな小さな事故でも何か異変の兆しがあるかもしれない」「字になるかどうかは結果であって起きた事実を再現できるように細部まで全体を把握しろ」といったことでしょう。
 ほとんどの新人記者は基本、最初の担当がサツ回り(警察取材)です。新人がなぜ最初に警察担当をするかというと、交渉力を含めた対人コミュニケーション能力、リサーチ能力が鍛えられるからです。捜査の進捗といった機密情報を刑事や捜査幹部がなかなか教えてくれない中で、いかに信頼関係を築き、取材競争が過熱化する中にあっても「◯◯市の殺人、45歳の男逮捕へ」といった特ダネを掴めるか。取材力が磨かれていきます。
 機密情報を入手するのは生半可なことではありません。情報漏えいを防ぐため公務員は法律で守秘義務が課されていて、情報を外に漏らした警察官は、懲戒免職となり、1年以下の懲役又は3万円以下の罰金に処されます(地方公務員法第34条第1項、第60条第2号)。捜査の進捗を明かすのは、信頼している取材側に「命」を預けているのと同じなのです。
 私は事件記者としては全くの落ちこぼれ。「逮捕状請求へ」といった鮮やかな記事は書けませんでしたが、口の重たい捜査員と対峙した経験がのちに東京本社の社会部時代に生きました。
 私が担当していた区役所の区長が辞任するとの情報があったのですが、当時私は極度の腰痛を抱え、松葉杖を片方だけ使って歩き回っていました。区長と親しいベテランの区議会議員が何か知っているかと思い、自宅へ夜回り取材。その議員と私は面識こそなかったものの、松葉杖をついてまで自宅前に張り込んでいた私の姿が印象的だったのか、区長辞任の意向を打ち明けてくれ、私は翌朝の紙面で特ダネを打つことができました。
 「下積み」は、入社6年目に本社に上がってからも続きました。本社では再び新人扱い。ある意味“再教育”がされるわけですが、そこでは支局で勤務していた頃よりも厳しく、裏付け、裏取りをするようにデスクに教育されました。原稿を出すと、「こう書いてある根拠は何だ?」と尋ねられて、曖昧な答えをしていると叱られるのは日常茶飯事。それこそ歴史的事実を書いた記事では一行一行、出典を確認させられました。
 新聞社の「下積み」には記者として基礎を鍛えるための部分だけでなく、文字通りの「下積み」仕事もありました。私が入社した当時はまだフィルムのカメラがデジカメと併用されていた時代。支局に自動現像機があったのですが、真っ黒な廃液を産業廃棄物としてゴミ出しするのは新人の役目。このほか地域版の読者に景品があたるジクソーパズルを作る仕事もやりました。どんな大事件が起きようとこれは毎週紙面に掲載するので、警察署の記者クラブで待機中、仮眠時間を削ってシコシコとパズルを作った思い出があります。
 結局、どんなに華やかに見える仕事も最初は「下積み」から入ります。もちろん地味な仕事をしている当時は、嫌で仕方がありませんでした。しかし最初から最前線で活躍できる即戦力な一握りの天才はともかく、私のような凡人は、下積みこそがビジネスパーソンとしての「血肉」になるのではないでしょうか。社会部時代に裏付け取材・確認を徹底するように叩き込まれた経験により、正確無比なコンテンツを作る意識が培われ、それは記者を辞めた現在でも生きています。
 ただ、そんな地味な記者生活を送っていた20代の終わりに、衝撃的な事件が起きました。(続く)

【人生を棒に振らないための教訓1】
どんな華やかに見える仕事も最初は下積み。凡人は下積みなくして「独立」はできない
 新聞記者というと政治家の知り合いが多いように思われそうですが、私は社会部や運動部の記者でしたので、記者時代からお付き合いさせていただいている政治家は少ないです。ただ、安倍総理の側近議員の方とたまたま10年以上のお付き合いがあるのですが、ある人から自宅でも演説の練習を欠かさず行っていると聞いて感心した記憶があります。選挙の仕事で新人候補者ともお付き合いしますが、小泉総理のような天才的な話術を持っている人はいざ知らず、凡人は自宅やカラオケボックスで何度も演説の練習をしているうちに自分なりの「型」を努力して見出し、大勢の有権者の前で淀みなく、説得力のある演説ができるようになっていく。その先に当選の栄光があるのだと思います。
 見出しにある「独立」とは必ずしも会社を辞めて起業するという意味ではありません。組織にいようと、凡人のビジネスパーソンが自己判断能力を持って「一人前」と認められるには相応の「下積み」期間が必要ではないでしょうか。

●新田哲史(にったてつじ)
言論プラットフォーム「アゴラ」編集長/ソーシャルアナリスト
1975年生まれ。早稲田大学卒業後、読売新聞東京本社入社。地方支局、社会部、運動部で10年余、記者を務めた後、コンサルティング会社を経て2013年独立。大手から中小ベンチャーまで各種企業の広報や、政治家の広報・ブランディング支援を行う。本業の傍ら、東洋経済オンライン、現代ビジネス(講談社)で連載。ブロガーとしてアゴラ、ブロゴス等に寄稿しており、2015年10月からアゴラの編集長を務める。