ビジネス : 第3回 米内光政―海軍善玉論の裏に隠された「無定見」【03】

第3回 米内光政―海軍善玉論の裏に隠された「無定見」【03】

第3回 米内光政―海軍善玉論の裏に隠された「無定見」【03】
米内光政(よないみつまさ)
1880(明治13)〜1948(昭和23)年。第23代連合艦隊司令長官。第39〜41、49〜52代海軍大臣。第37代内閣総理大臣。最終階級は海軍大将。

米内と東條に共通する無定見

 奇妙なことに、海軍の論理を死守しようとするこの米内のスタイルは、陸軍における東條英機(とうじょうひでき)と瓜二つということができる。

 表面的には、親英米派の米内と反英米派の東條は対照的な軍人であるように思われる。個人の性格も、酒豪で花柳界でもてた豪放磊落な米内と、呆れるほど謹厳実直・禁欲的な東條とでは正反対である。

しかし米内も東條も、自身が属する海軍、陸軍の論理を国家に優先する徹底した軍官僚ということでまったく共通していた。第2次、第3次近衛内閣の陸相として中国からの徹兵に激しく反対した東條にとって何より大切なのは、日本国家の未来よりも、中国戦線で戦い続ける「陸軍の論理」だった。石原莞爾などと違い、東條自身は中国大陸や満洲国の未来に関して何の定見も持っていない人物である。東條も米内も「何も考えていないお役人軍人」だったのである。

 この東條と米内の性格の共通点を一番よく認識し、2人を好んだのは昭和天皇であった。東條、米内とも、無思想的な軍官僚である反面、徹底した勤皇家である。東條に関していえば、1941年10月の首相任命時、昭和天皇から日米交渉再開を指示されるや否や、東條はそれまでの陸軍の論理をすべて捨てて、日米交渉再開に死に物狂いで動き出す。

同じことは、石原莞爾のような「ビジョンの塊」的な軍人だったらできなかったであろう。東條は無思想であるがゆえの勤皇家なのだ。石原は自身のビジョンのためだったら、天皇の意思をその下位に置くようなことも厭わない人間だった。そのこともよく見抜いていた昭和天皇は、石原の性格を酷評している。

 終戦時、海相の地位に戻っていた米内も、ポツダム宣言受諾に天皇が見解を表明してからはその実現に全力をあげて奔走した。

また終戦後、天皇の命令により、占領軍からの屈辱に耐えつつ海軍の解体を手際よく運んだ(米内は戦後、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣、幣原(しではら)内閣でも海相に留任、最後の海相となった)海軍解体を黙々とこなした米内の姿から、あれほど「海軍の論理」に固執したにもかかわらず、天皇の直接命令があれば、その論理そのものの解体も辞さない勤皇家という二面性を彼が持っていたことが理解できると思う。

開戦時の東條とまったく同じなのである。こうした米内の性格を、昭和天皇は東條と同様に好んだのである。

 だが、昭和天皇の判断基準がすべてだとはいえない。米内は確かに勤皇家であった。しかし、天皇の直接命令から離れたときの彼は、日中戦争、三国同盟の時期からのちも、海軍の論理を固守する能吏として、きわめて愚昧な政治的行動を取ることが多かった。

その行動のいくつかは大東亜戦争の「敗戦責任」に関係している。ここで戦時下における米内の指摘されるべき2つの「敗戦責任」の行動を指摘しておくことにしよう。この2つの「敗戦責任」は、今まで述べた米内という人物だからこそ生み出された歴史的な事実にほかならない。

特攻隊戦術に対する無為無策

 1944年7月、大東亜戦争の戦局悪化が深刻になり、世論の轟々たる非難のもと、東條内閣は退陣した。後継首班については寺内寿一(てらうちひさいち)(南方軍総司令官)や梅津美治郎(うめづよしじろう)(参謀総長)などが候補にあがったが、結局、朝鮮総督の小磯国昭(こいそくにあき)に落ち着く。

しかし、小磯の政治能力を疑問視する重臣や宮中グループの提案により内閣を連立内閣とし、退役していた米内を現役に復帰させ、副総理格で海相として入閣させることにした。1940年の内閣退陣以来の米内の政界復帰である。海相復帰と同時に米内は、海軍兵学校校長のポストにあった井上成美を次官に迎えている。

 小磯は米内内閣時に拓務大臣を務め、米内と親交があった。米内は小磯を首相に推挙する重臣会議で小磯の人柄と手腕を高く評価している。重臣や宮中グループは経験豊富な米内から小磯に働きかける形で大東亜戦争終結の糸口への動きが始まることを、この連立内閣で期待していたのである。

だが期待に反して、米内はこの約8カ月間の小磯内閣の期間、目立った政治的行動は何もしなかった。連立内閣の目論見はまったくはずれてしまったのである。

 そのような中、戦局はますます悪化していく。10月のフィリピン・レイテ島の海戦では、大西瀧治郎の提案によりついに神風特別攻撃隊が編成された。特攻は本来は限定的な作戦であるはずだった。

しかし、すでに艦隊の大部分を喪失し、残り少ない航空機を操縦するパイロットの技量も著しく低下していた海軍は特攻作戦があげる予想外の戦果にも幻惑され、主戦力を特攻機にする選択に陥ってしまう。以後、敗戦にいたるまで、膨大な数の特攻機が出撃することになる。

 海軍が特攻隊戦術を採用したこの期間、ずっと海相の地位にあった米内はここでも何もしていない。海軍の作戦指導についての責任者は軍令部総長であって、厳密にいえば海軍大臣は作戦についての権限を有していない。

しかし、海軍大臣である米内が身命を賭しての行動を取れば、作戦計画の変更はもちろん可能であっただろう。たとえ熱心な米内ファンであっても、三国同盟にあれほど命賭けで反対した彼のこの沈黙はいったい何なのか、首をかしげるのが当然だと思う。

 もしかしたら米内自身は、内面では特攻隊戦術に批判的だったのかもしれない。しかし表面的には、彼は特攻隊戦術をすべて黙認し続けた。彼は特攻隊の戦果を幾度となく昭和天皇に報告上奏している。ここでも米内は、部下の大西が計画実施した作戦には異を唱えないという「海軍の論理」を優先させたのだろうか。

ゆえに、次のように、特攻作戦の責任を問う歴史論に、大西の名前とともに米内の名前が挙がるのは論理的必然であるといわなければならないだろう。ちなみに、以下で大西と米内を弾劾する三村文男は、明確な保守系の論者である。

 前記の拙著にも記したが、私は大西瀧治郎を殺人罪で告発する。時効という反論はあるだろう。この世の法律ではそうだ。私はヘーゲルの「世界歴史は世界法廷である」という言葉に従って、歴史の法廷に告発するのだ。彼と同様に、あるいは彼の下で、特攻命令を出した人たちをも告発する。現在大西を賛美する人たち、特攻を肯定する人たちを、殺人の事後従犯で告発する。
 当然米内光政に対してもそうだ。彼は自ら手を汚さず、大西にやらせて特攻作戦を続けた。大西は戦後自決し、特攻の責をとったといわれたが、私はそれを認めず、前著で批判した。米内は自決しないでも、誰一人それを怪しむ者はいなかった。しかし若者たちを悠久の大義の名の下に、悲惨な死に方をさせつつある戦争末期の頽廃に、目をつぶった罪は重い。
(三村文男『米内光政と山本五十六は愚将だった』テーミス、2002年)
 

「良識派」「善玉」の言葉の意味するところと、特攻隊戦術に異を唱える「ヒューマニズム」は結び付くのが自然ではないだろうか。しかし、「海軍の論理」のみに依拠する米内には、そのような「ヒューマニズム」は持ちようがなかった。

米内のこの特攻隊戦術への無為無策ほど、「海軍良識論」「海軍善玉論」の虚構を意味するものはないといえるだろう。これは次官の井上成美についても当てはまることである。

 特攻隊員の精神の美しさは永遠に日本の歴史にあるというべきだろう。だがそのことは、そのような作戦を企画立案した海軍幹部の恐ろしい愚劣さとはまったく別の問題である。特攻隊戦術に関して、少数ではあったが、軍内部に批判が存在した事実はある。立案者の一人とされている大西の苦悩も忘れ去られるべきでない事実である。

しかし、海軍全体を率いる海軍大臣に、まったくといっていいほど何も抵抗の言説がなかったことはあまりに恥ずべきことであった。米内の抵抗があれば、違った形での特攻隊作戦のあり方、すなわち違った形での敗戦があり得たと思う。

 敗戦とともに、特攻隊員の精神は語り継ぐべき大東亜戦争の神話となった。しかし、その神話の影で、特攻作戦の企画者、責任者の面々の愚かしさも語り継がねばならないものとして生み出された。

特攻隊の問題は今なお、私たち日本人の問題でもある。だとすれば、米内の無為無策に見られる海軍首脳の愚劣さもまた、今日にいたるまで私たち日本人が考えなければならない1つの敗戦責任であろう。

『大東亜戦争を敗戦に導いた七人』(小社刊)より

渡辺 望(わたなべ のぞむ)
1972年、群馬県高崎市生まれ。早稲田大学大学院法学研究科修了。2008年より西尾幹二氏に師事し、雑誌やインターネットで言論活動を展開する。主著に『国家論』(総和社)、『蒋介石の密使 辻政信』(祥伝社新書)、『日本を翻弄した中国人 中国に騙された日本人』(ビジネス社)、『石原莞爾』(言視舎評伝選)など。