石渡蔵相から質問が出た。
「一体、この同盟を結ぶ以上、日独伊三国が英仏米ソの四国を相手に戦争する場合のあることを考えねばなりませんが、その際戦争は八割まで海軍によって戦われると思います。ついては、われわれの腹を決める上に、海軍大臣の御意見を聞きたいが、日独伊の海軍が英米仏ソの海軍と戦って、我に勝算がありますか? その点どうですか」
茫洋(ぼうよう)口べたの米内が、この時語尾を濁さぬ非常に明確な答をした。
「勝てる見込みはありません。大体日本の海軍は、米英を向うにまわして戦争するように建造されておりません。独伊の海軍に至っては問題になりません」
(阿川弘之『米内光政』新潮文庫、1982年)
「要するに防共協定強化の逆効果として英米より経済的圧迫を被(かうむ)るが如き破目に陥るならば、目下事変に直面しある国として、頗(すこぶ)る憂慮すべき事態に陥ることとなるべし。かくの如きは絶対に回避せざるべからず」
「結局において馬鹿(ばか)を見るは日本許(ばか)りといふ結論となるべし。自分としては、現在以上に協定を強化することには不賛成なるも、陸軍の播(ま)いた種を何とか処理せねばならぬといふ経緯があるならば、従来通りソ聯を相手とするに止(とど)むべく、英国までも相手にする考へならば、自分は『職を賭(と)しても』これを阻止すべし。(略)
(同)
日露戦争後の日本海軍は、想定敵国をアメリカに絞った関係から、戦後経営の方向をもっぱら海軍の物的・技術的近代化に求めた。そのために、海軍指導者らの眼は欧米の先進諸国だけに向けられ、複雑なアジア大陸、とくに中国の内情等については認識が浅く、陸軍に情報を仰ぐだけというのが実情であった。
(池田清『海軍と日本』中公新書、1981年)
また海軍は一八八七(明治20)年以来、清国、ついで中国に公(大)使館付武官を駐在させてはいたが、公使館付武官補佐官と上海武官が派遣されたのは一九二二年(大正11)年以降であり、のち漢口武官(昭和3)、南京武官・青島武官(昭和4)が新設されたにすぎない。日露戦争直後の一九〇五(明38)年一二月卒業の海軍大学校将校科甲種学生第四期(四名)以降、日中戦争がはじまってまもない一九三八(昭和13)年九月卒業の第三五期(三四名)に至る六三〇名のエリート将校のうち、英六二、米四九、仏二六、独一七、露五名の順で各国に派遣されたが、中国へは一人も派遣されていない。
(同)