ビジネス : 第2回 米内光政―海軍善玉論の裏に隠された「無定見」【02】

第2回 米内光政―海軍善玉論の裏に隠された「無定見」【02】

第2回 米内光政―海軍善玉論の裏に隠された「無定見」【02】
米内光政(よないみつまさ)
1880(明治13)〜1948(昭和23)年。第23代連合艦隊司令長官。第39〜41、49〜52代海軍大臣。第37代内閣総理大臣。最終階級は海軍大将。

「良識」の背後に見え隠れする「責任逃れ」

 では、こうした三国同盟の流れに全面抵抗した米内の反対理由とはどんなものなのだろうか。平沼内閣時の五相会議(内閣閣議とは別に開催されていた首相、外相、蔵相、陸相、海相による国策指導会議)での彼の見解を、阿川氏の米内伝から引いてみることにしよう。

 石渡蔵相から質問が出た。
「一体、この同盟を結ぶ以上、日独伊三国が英仏米ソの四国を相手に戦争する場合のあることを考えねばなりませんが、その際戦争は八割まで海軍によって戦われると思います。ついては、われわれの腹を決める上に、海軍大臣の御意見を聞きたいが、日独伊の海軍が英米仏ソの海軍と戦って、我に勝算がありますか? その点どうですか」
 茫洋(ぼうよう)口べたの米内が、この時語尾を濁さぬ非常に明確な答をした。
「勝てる見込みはありません。大体日本の海軍は、米英を向うにまわして戦争するように建造されておりません。独伊の海軍に至っては問題になりません」
(阿川弘之『米内光政』新潮文庫、1982年)


 また米内は、同じ平沼内閣閣内にあって三国同盟締結を主張する陸相の板垣征四郎とのやり取りで次のような主張を展開している。

「要するに防共協定強化の逆効果として英米より経済的圧迫を被(かうむ)るが如き破目に陥るならば、目下事変に直面しある国として、頗(すこぶ)る憂慮すべき事態に陥ることとなるべし。かくの如きは絶対に回避せざるべからず」

「結局において馬鹿(ばか)を見るは日本許(ばか)りといふ結論となるべし。自分としては、現在以上に協定を強化することには不賛成なるも、陸軍の播(ま)いた種を何とか処理せねばならぬといふ経緯があるならば、従来通りソ聯を相手とするに止(とど)むべく、英国までも相手にする考へならば、自分は『職を賭(と)しても』これを阻止すべし。(略)
(同)


「ドイツの手助け=三国同盟」が必要になるところまで長期化してしまった日中戦争の原因を作ったのは陸軍であること、そしてその三国同盟の結果、世界戦争になった場合、海軍は戦力の上で勝利の確信を持てないというこの米内の主張は、一見すると「海軍の良識派」そのものに見える。しかし、史実を正しく検討すれば、この言葉ほど彼の責任逃れを示している言葉はないのである。

 日中戦争の発端となった盧溝橋(ろこうきょう)での衝突のとき、海相(第一次近衛内閣)だった米内は当初、不拡大派であった。拡大論に傾斜する陸相の杉山元(すぎやまはじめ)のなだめ役を演じることもあった。しかし、翌月の1937年8月、中華民国軍の攻撃により第2次上海事変が起き、上海の海軍部隊が孤立する恐れが出てくると、彼の態度は一変する。

 米内は強硬に派兵を主張、多数の海軍陸戦隊が上海に派遣された。地上だけでなく海軍は九州、台湾、済州島の基地から、長距離攻撃の可能な96式中型攻撃機を使い、上海や南京の爆撃作戦を実行する。さらに、米内は日中停戦のための駐華ドイツ大使トラウトマンの工作にも反対した。事実上の日中全面戦争論である。その強硬ぶりは、閣議で不拡大を唱える蔵相の賀屋興宣(かやおきのり)を怒鳴りつけるほどのものだったという。

 賀屋はよほど「海軍良識派」と相性が悪かったようである。1930年のロンドン軍縮会議に随行したときは、同じ随行団の山本五十六に「賀屋黙れ、これ以上何か言うと鉄拳が飛ぶぞ!」と怒鳴られている(実際、殴られたという説もある)。山本五十六は今日では条約派(軍縮条約賛成派)のように見られているが、それは1930年代後半からで、ロンドン会議のときの山本は艦隊派(軍縮条約反対派)の急先鋒であり、アメリカ、イギリスの条件案の受諾に真っ向から反対して暴れていたのである。こうした米内や山本の悪しき武勇談は、海軍善玉論の書の大半がきれいさっぱり省略している。

 余談になるが、賀屋は東京裁判で終身禁固刑を宣告されるものちに釈放され、政界に復帰、石原慎太郎氏が尊敬敬愛する政治家の1人であった。「海軍良識派」の虚構を身をもって知っていた賀屋は衆議院議員、池田勇人(いけだはやと)内閣の法務大臣、自民党政調会長などを務めたあと、1977年に88歳の天寿をまっとうしている(ティム・ワイナーの『CIA秘録』〈文春文庫、2011年〉によれば、戦後の賀屋はCIAの有力な協力者だったとされる)。

 何のことはない、日中戦争の長期化に関しては海軍も陸軍と同じ、あるいはそれ以上の責任があるのだ。もちろん、第二次上海事変はドイツの派遣将校団の指示を受けて日中戦争を拡大しようとした中華民国軍の策謀によるものであって、例によって開戦責任が日本側にあるわけではない。しかし、派兵の際限のない拡大の主張に加えて、陸軍の大勢も同意に傾いていたトラウトマン交渉の打ち切りなどについての米内の態度は、何とも理解に苦しむ。

中国を知らなすぎた海軍

 また、注意しなければならないのは、陸軍は日中戦争開始にあたって拡大派と不拡大派が内部で激しく対立したのに対し、米内率いる海軍は積極介入方針で簡単に統一されてしまっていたことである。このことについては、海軍の伝統的な対中国認識の浅さ、甘さがあるといえるだろう。陸軍は伝統的に対中国研究を重視し、対中国政策についてはその都度、常に活発な賛否両論が存在し、またそうした伝統の中で石原莞爾(いしわらかんじ)や影佐禎昭(かげささだあき)のような才人も輩出した。

 だが、海軍にはそういう伝統はまったく存在しないのである。このことが日中戦争時の海軍の無計画な拡大方針を生み出したといえるだろう。自身が海軍士官だった経験を有する政治学者の池田清は、海軍の対中国認識について次のように述べている。


 日露戦争後の日本海軍は、想定敵国をアメリカに絞った関係から、戦後経営の方向をもっぱら海軍の物的・技術的近代化に求めた。そのために、海軍指導者らの眼は欧米の先進諸国だけに向けられ、複雑なアジア大陸、とくに中国の内情等については認識が浅く、陸軍に情報を仰ぐだけというのが実情であった。
(池田清『海軍と日本』中公新書、1981年)

 また海軍は一八八七(明治20)年以来、清国、ついで中国に公(大)使館付武官を駐在させてはいたが、公使館付武官補佐官と上海武官が派遣されたのは一九二二年(大正11)年以降であり、のち漢口武官(昭和3)、南京武官・青島武官(昭和4)が新設されたにすぎない。日露戦争直後の一九〇五(明38)年一二月卒業の海軍大学校将校科甲種学生第四期(四名)以降、日中戦争がはじまってまもない一九三八(昭和13)年九月卒業の第三五期(三四名)に至る六三〇名のエリート将校のうち、英六二、米四九、仏二六、独一七、露五名の順で各国に派遣されたが、中国へは一人も派遣されていない。
(同)


 陸軍は中国を知りすぎていたがゆえに、大陸の事情に深入りしてしまったといえるかもしれない。しかし海軍は逆に、中国大陸に対して無知だったがゆえに、戦線拡大にかかわってしまったといえる。そのかかわりは無知がゆえに無自覚なものだった。阿川氏の評伝に引用されている米内の板垣への意見に関しても、米内自身は嘘を言っている自覚はほとんどないであろう。つまり、米内は自分や海軍が日中戦争を拡大したとはまったく考えていないのである。

 この無自覚が、なぜ米内の強硬な派兵の主張、空爆を含めた戦線拡大論と結び付いたのであろうか。それは、上海で中華民国軍の猛攻を受けて孤立状態にあったのが陸軍部隊ではなく、海軍陸戦隊だったからである。盧溝橋事件の段階では陸軍の出来事にすぎなかったゆえに、米内は無関心的な拡大反対派であった。その彼が「海軍が攻撃された」ということで態度と見解を豹変させた。つまり、米内の戦線拡大論はあくまで海軍の論理を通すためのもの、海軍の立場を守るためのもので、それ以上のものではなかったのだ。

 福田和也氏は、米内のこの強硬姿勢が実は日独伊三国同盟での彼の反対論と同じ論理から生じていると指摘している。これは非常な卓見であって、平沼内閣の五相会議で米内が言ったことは、一見するときっぱりした雄弁に見えるが、その実体は「日本の海軍戦力は英米にかなわない」という「海軍の論理」を言っているにすぎない。そして第一次近衛内閣海相時、米内は同じ「海軍の論理」に従って、第2次上海事変の際に現地の海軍陸戦隊を救おうとしたのである。米内の無自覚な板垣への発言、三国同盟反対論と上海派兵主張などの矛盾した行動が、福田氏の解釈によって矛盾のない整合性を持ったものになるといえよう。

 三国同盟反対に何も国家的ビジョンが伴っていなかったことは、上海戦線の拡大が日本全体にいかなる悪影響を及ぼすのかを考えていなかったこととまったく共通していると福田氏は言う。つまり、米内はある意味で何も考えていない人物、何の国家的思想をも有していない無定見な海軍官僚の代表だったということなのである。

『大東亜戦争を敗戦に導いた七人』(小社刊)より

渡辺 望(わたなべ のぞむ)
1972年、群馬県高崎市生まれ。早稲田大学大学院法学研究科修了。2008年より西尾幹二氏に師事し、雑誌やインターネットで言論活動を展開する。主著に『国家論』(総和社)、『蒋介石の密使 辻政信』(祥伝社新書)、『日本を翻弄した中国人 中国に騙された日本人』(ビジネス社)、『石原莞爾』(言視舎評伝選)など。