ビジネス : 第1回 米内光政―海軍善玉論の裏に隠された「無定見」【01】

第1回 米内光政―海軍善玉論の裏に隠された「無定見」【01】

第1回 米内光政―海軍善玉論の裏に隠された「無定見」【01】
米内光政(よないみつまさ)
1880(明治13)〜1948(昭和23)年。第23代連合艦隊司令長官。第39〜41、49〜52代海軍大臣。第37代内閣総理大臣。最終階級は海軍大将。

海軍良識派は本当に「賢眼」だったのか?

 大東亜戦争を語る上で、日独伊三国同盟をどう評価するかということは避けて通れない問題であろう。
 もっとも大部分の論者は――たとえ大東亜戦争全体に肯定的な見解の持ち主であっても――この同盟についてプラスの評価をくだすことはまったくといっていいほどない。「大東亜戦争擁護論」は存在しても、「日独伊三国同盟擁護論」なるものはほとんど存在しない。結んでしまった同盟をどう利用するか(たとえば、独ソ戦開始時、北進論によってソ連をドイツと挟撃するべきだったかどうか)はあり得るが、この同盟で日本の命運そのものが好転したという見解に出合うことはまずないといっていい。

当時のドイツの最大の魅力であった軍事的ハイテクに関しても、日本とドイツの距離があまりに遠すぎたため、数回の潜水艦を通じてのやり取りを除いて、技術提携はほとんど実現しなかった。たとえば、これら潜水艦を通じてドイツからもたらされた設計図を元にしてジェット戦闘機「橘花(きっか)」、ロケット戦闘機「秋水(しゅうすい)」が制作されたが、両機の完成はまさに終戦直前の一九四五年七月から八月にかけてで、何の意味もなかった(秋水は実験飛行に失敗している)。

 戦前戦中においても、三国同盟を破棄した上で対米戦争に突入すべきとする見解も少なからず見られた。たとえば陸軍の有力者であり、近衛内閣と東條内閣で国務大臣、企画院総裁を務めた鈴木貞一(すずきていいち)中将(戦後、東京裁判で終身禁固刑、のち釈放、平成まで存命する)は、対米開戦強硬派であると同時に三国同盟破棄派であった。軍事同盟として地政学的に意味がないことに加えて、外交的詐術を繰り返すドイツへの不信感は、当時の日本の、いわゆる開戦派においても決して少数意見ではなかった。

 よほど知識のない人間でない限り、同盟の中核にあったドイツの人種意識が潜在的に日本にも向いていたことは、当時から今にいたるまでよく知られている。ヒトラーの『わが闘争』には、彼の徹底した日本蔑視が一貫している。そうした根底的な対日意識に加え、一九三〇年代のドイツの日本への態度も行き当たりばったりだった。日中戦争初期にドイツは、中華民国と軍事提携して日本を圧迫していたという史実も存在する。ドイツが日本に擦り寄ってきたのは、アメリカに圧迫されつつあった日本への同情や誠意などではなく、アジアの軍事大国の日本を「駒」としてのみ扱う計算的行為以外の何物でもなかった。

 だが、このような「三国同盟=悪」論は多分に歴史的コモンセンスだとしても、その論がそのまま裏返って、「三国同盟反対=善」論になるのは果たして正しいであろうか?

 米内光政、山本五十六(やまもといそろく)、井上成美(いのうえしげよし)らの面々は今日にいたるまで「海軍良識派」と称され扱われている。この中で特に米内は、首相として一度、海相として七度にわたり時局にあたった「海軍良識派」における最高の政治的人物だった。いわゆる海軍善玉論にとっての象徴ともいうべき存在といってよいだろう。その米内のトップクラスの政治的業績が三国同盟への反対の貫徹だとされているのである。

 だがすでに述べたように、ナチス・ドイツへの不信感、三国同盟への反発の史実は何も米内ら海軍グループが独り占めすべきものではない。いわゆるナチズムへの思想的不信感に関しても、たとえば三国同盟締結論が議論された当時の首相、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)などは、純粋国粋主義の観点からナチズムをマルクス主義と同様の外来思想として激しく嫌悪していた。

 平沼のような観念右翼からすれば、「国家社会主義」=「ナツィオナール ゾツィアリスティシェ」=「ナチス」は文字通り「社会主義」ではないかというわけである。ところが、平沼のナチス嫌いはほとんど評価されない。いわゆる「右派」からのナチス批判、三国同盟拒絶がほとんど無視され、なぜか海軍良識派のみがそれらをなしていたと語られるところに、戦後史学の怪の1つがあるといわなければならない。

 海軍良識派論、海軍善玉論は、左派的な自虐史観、平和主義史観と微妙な一線を画しつつ、戦後戦史論の世界の主流をなしているといってよい。その代表的主張者として阿川弘之氏や半藤一利氏を挙げることができるだろう。司馬遼太郎もその面々の1人に入るかもしれない。私自身は彼らの単純な海軍善玉論には賛成できない。しかし、一部の保守系論客に有力化しているような、この海軍善玉論への反発が反・海軍善玉論に転じ、さらには「陸軍善玉」論の登場を招くということも単純すぎるように思われる。歴史について善悪の二面で割り切ることほど悪しき誤謬はない。「善」の反対は「悪」とは限らず、「悪」の反対が「善」と限らないのが歴史、とりわけ戦史論の出発点にして終着点である。

 問題とすべきは、たとえば米内という人物について、どうして「良識」や「善玉」という形容が彼に対する評価において登場したのか、ということではないだろうか。日独伊三国同盟は確かに問題の多い同盟であった。しかし、日独伊三国同盟に反発した米内が、何を考えてこの同盟に反対したのかというのは自ずから別の問題であるはずだ。

 多くの米内に関する評伝は、米内あるいは山本、井上たちが巨視的な視点に立って日本の「正しい進路」を知り得ていたかのような記述をしている。「善玉」の「善」の意味するところは、三国同盟の反対論者が、「正しい日本の進路」を見抜いていた「賢眼」の持ち主であったかどうかということに帰着しているようである。「善玉=賢眼」なのだ。だが米内が、同盟反対論と同時に、三国同盟を結ばなければならない状況を打開するために、同盟締結に代替するビジョンを示す演説なり論考を提示したという史実は皆無である。これは山本五十六や井上成美に関しても同じである。

 にもかかわらず、米内光政をめぐっての論議の多くは、大東亜戦争に関して彼がそのような「賢眼」の持ち主であったということに終始する。彼は歴史のすべてを見通していた人間だったというのだ。果たして米内は「賢眼」の持ち主だったのかということの検討は、「海軍良識」「海軍善玉」なるものが果たして存在するのかということに加えて、海軍にせよ陸軍にせよ、あるいは外交官にせよ政治家にせよ、大東亜戦争をめぐる「良識」「善玉」ということが果たして存在し得るのかどうかという問題に直結するもののように、私には思われる。


「三国同盟推進派」は本当に「愚」だったのか

 ここで日独伊三国同盟に関しての史実を簡潔に整理してみよう。

 三国同盟締結のいかんは、時期的に二度にわたり問題になった。1939年8月の独ソ不可侵条約の締結というドイツの背信により未締結に終わった1度目の交渉時期と、1940年9月に同盟条約締結となった2度目の交渉時期である。1度目の三国同盟のとき、米内は平沼騏一郎内閣の海軍大臣であり、このときに次官の山本五十六と軍務局長の井上成美のトリオで同盟締結に反対をしている。米内は閣内で、同盟賛成派の板垣征四郎(いたがきせいしろう)陸相と幾度となく激論を展開した。

 ちなみに板垣と米内は、三国同盟に関しては犬猿の仲であったが、同じ岩手の出身、旧制の盛岡中学(現在の盛岡一高)の同窓で、個人的にはきわめて仲がよかった。また板垣も米内も共に、酒豪・読書家、岩手人らしい無口だが粘り強い性格の持ち主であった。満洲事変当時、関東軍高級参謀として事変を動かしたといわれる板垣であるが、板垣は、めまぐるしく策謀の頭を働かせる同僚参謀の石原莞爾の案を上層部に押し通す「腹の板垣」の役割に徹していたというのが事実である。実は、この三国同盟締結論のときも状況はよく似ており、日中戦争解決を三国同盟と結び付けようとした陸軍大勢の見解を、陸相の板垣が例によって「腹の板垣」としてまとめていたものだった。

 この平沼内閣が独ソ不可侵条約の成立により総辞職したのち、阿部信行(あべのぶゆき)内閣(在任4カ月)を経て1940年1月に米内が内閣を組織する。この内閣のもとで再び三国同盟の締結論が浮上、三国同盟締結に傾斜した陸軍の主導(畑俊六(はたしゅんろく)陸相の辞任)により米内内閣は総辞職を余儀なくされ、同盟に積極的な第二次近衛内閣が結成される。第二次近衛内閣の海相の及川古志郎(おいかわこしろう)は同盟締結論に押し切られ、一九四〇年九月の三国同盟調印となった。このとき米内は首相辞任直後で無官状態、山本五十六は連合艦隊司令長官に、井上成美は支那方面艦隊参謀長に転出しており海軍中央にいなかった。つまり、米内ら同盟反対論トリオの活躍は、1度目の同盟推進論のとき(だけ)だったということになる。

 ここで整理しておかなくてはならないのは、1度目の三国同盟締結交渉と2度目の三国同盟締結交渉では政治的目的が大きく異なっていたことである。1度目の三国同盟交渉の場合、三国の仮想敵国は、アメリカ、イギリス、フランスに加えてソ連が存在している。この時期、張鼓峰(ちょうこほう)事件やノモンハン事件などで、日本はソ連との国境紛争に苦慮しており、ドイツとの軍事同盟により日中戦争の背後にあるアメリカ、イギリスだけでなく、ソ連への牽制も必要としていた。しかし三国の軍事力からして、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連に対して同時に敵対構図を張るのは明らかに無理があった。

 2度目の同盟交渉において図式は一変する。欧州で発生した大戦により、フランスは降伏しイギリス軍は劣勢に立たされていた。この情勢の中で、一時的ではあるが、ドイツとソ連が政治的に急接近する。ドイツ側の提案は、ソ連を加えた「四国同盟=ユーラシア連合」の前段階としての三国同盟の締結という内容であった。ドイツ内ではヒトラーのような反ソ連派ももちろん有力に存在したが、外相のリッベントロッブのような親ソ連派も有力であった。また、対日三国干渉や第一次世界大戦後のラパッロ条約(1922年)に見られるように、独ソ(独露)提携の前歴は少なからず存在しており、歴史的に見て四国同盟が空想的なプランだとは必ずしも言い切れない面があるということができる。

 周知のように、「四国同盟=ユーラシア連合」論の急先鋒が第2次近衛内閣の松岡洋右(まつおかようすけ)であった。ソ連の枢軸国化によってアメリカは身動きがとれなくなり、中国も手を挙げるに違いないと松岡は各方面に説く。この松岡のスピーディーな豪腕によって、三国同盟は第2次近衛内閣成立からわずか2カ月という速さで成立にいたる。しかし周知のように、このユーラシア連合論は1941年6月の独ソ戦争の勃発によって瓦解する。

 端的にいえば、日本は深入りしすぎた中国大陸での情勢から何とか脱するために四苦八苦していたのである。結果的に見れば三国同盟は益するところ少なく、ユーラシア連合も夢想に終わった。しかし、これらを画策した人間が何も見抜いていなかったとするのはまったくの間違いである。たとえば松岡は、同盟には積極的であったが、彼自身はドイツの日本への誠意を個人的には懐疑していた。「ドイツは他国を利用して我欲をほしいままにすることが上手だが、間違っても他国に利用される愚をなさぬ国民だから、これと手を握った国はほとんど例外なしに、火中の栗を拾わされた」という、松岡のドイツへの酷評の言葉が存在している。

 にもかかわらず、松岡は「悪」との同盟をあえて選択した。三国同盟が八方塞がりの中で考えられた苦しいビジョンという認識は、同盟推進派にも充分にあった。同盟推進派が単にドイツに踊らされていたというのは海軍善玉論者の十八番であるが、松岡の複雑な認識に見られるように、そうした「同盟推進派=愚」論は正しいものとはいえない。三国同盟反対が海軍のみのものでなかったのと同様、こうした同盟推進派への誤った視点も今後、修正されなければならないであろう。

『大東亜戦争を敗戦に導いた七人』(小社刊)より

渡辺 望(わたなべ のぞむ)
1972年、群馬県高崎市生まれ。早稲田大学大学院法学研究科修了。2008年より西尾幹二氏に師事し、雑誌やインターネットで言論活動を展開する。主著に『国家論』(総和社)、『蒋介石の密使 辻政信』(祥伝社新書)、『日本を翻弄した中国人 中国に騙された日本人』(ビジネス社)、『石原莞爾』(言視舎評伝選)など。