ビジネス : 第9回 レイヤー その1

第9回 レイヤー その1

第9回 レイヤー その1
 このところ、「レイヤー」という言葉をよく目にする。もともとIT関係の専門用語で、画像処理などで使われるソフトウェアの機能のことらしい。文字や写真など、幾つかのパーツをセル画のように重ね合わせて一枚の画像を表現する。「層状のもの」「横にスライスされたもの」といった意味で、かなり幅広く使われているようだ。現在という状況を、うまくとらえている言葉なのだろう。

 この言葉を戦略的に使っている例として、面白いなと思ったのは、坂口恭平さんの『独立国家のつくりかた』(講談社現代新書)を読んだときだった。隅田川沿いで出会ったホームレスについて、坂口さんはつぎのように書いている。

 同じモノを見ていても、視点の角度を変えるだけでまったく別の意味を持つようになる。彼の家、生活の仕方、都市の捉え方には無数のレイヤー(層)が存在しているのだ。
 彼が見ているレイヤーは普通の人が見ているレイヤーとは違うので、誰にも気付かれないし、誰からも奪われない。同時にそこを他の人が使っても文句がない。彼はこれまでの所有の概念とはまったく違った空間の使い方を実践しているのだ。(『独立国家のつくりかた』)


路上生活者たちが公園や川沿いの土手と道路の隙間といった、ほとんどの人が見過ごしてしまう共有地(コモンズ)に新たなレイヤーを発見して、そこを生活の基盤にしているという例。もう一箇所、坂口さんのものの見方の特徴がよく出ているところを引いておこう。

 インフラなどが安定しているように見える社会システムは、みんなが暮らしやすいように、「ゼロ思考」でも対応できるようなレイヤーである。匿名化したレイヤーと言ってもいい。そこには「思考」がないから「疑問」もない。それは真実かもしれない。でも、無数にある真実のうちの一つにすぎない。(前掲書)


 こうした考え方は、じつは小説を書いている者にとっては馴染み深いものだ。なぜ文学は通俗を嫌うのか、常套句や月並みな表現を避けようとするのか。それは文学が、「インフラなどが安定している社会システム」の住人ではありたくないと思っているからだ。なんとか、そこから外に出ようとしている。

 よって「ゼロ思考」でも対応できるレイヤーで書かれた物語は、「通俗的」として下位に位置づけられるし、常套句や月並みな表現を多用する物書きは、思考もなければ疑問もない者として軽んじられる。(気をつけよう。)

 もう少し文学の話をつづける。そもそも、なぜ「描写」という行為が成り立つのか。それは同じ風景のなかに、無数のレイヤーが存在していることが、暗黙のうちに了解されているからである。海をただ「青い海」と書いても表現にはならない。海という匿名化したレイヤーに、言葉と切り離し難いイメージとして、自分だけのレイヤーを見つけるとき、それは書かれるべきものになる。

 この点で、文学は恋愛と似ているかもしれない。その人のなかに、まだ誰にも気づかれていないレイヤー、自分だけの真実を見出したとき、「好き」という感情が芽生える。同じようにして、文学の言葉もまた私たちのなかに生まれる。「悲しみ」という単一の感情があるのではなく、悲しむことの無数のレイヤーがある。だからどんなに親しい人の悲しみも、自分が代わって悲しむことはできない。

 その人の悲しみは、その人によって生きられるしかないのだ。これを小説は、たとえば「彼(彼女)によって生きられる悲しみ」というかたちでつまみ出すことができる(たぶん)。

 現実のなかに様々なレイヤーを見出していくことを、坂口さんが芸術や創造行為と結びつけていることは、実感としてよく理解できる。何かを変えようとする行動は、すでに自分が匿名のレイヤーに取り込まれていることを意味する、と彼は言う。大切なのは考えることであり、多層なレイヤーを認識することであると。

 匿名化したレイヤーでは不可能だと思われていることを、高い解析度で見て、独自のレイヤーを発見し、そこで交易することによって社会を拡げる。動かしがたいものとしてある現実を相対化する。こうした実践をとおして、自ずと社会は風通しの良いものになっていく。政治や行政をあてにしなくても、社会のあり方は変わっていく。

 たとえば選挙に行って投票する、そういうレイヤーで社会とかかわり合いをもつのは、もうやめようと言っていることになる。なぜなら政治も行政も、「どうしようもなく故障した機械なので何を言っても無駄なのだ」から。

「路上生活者、野宿者の状況、自殺者の数からして、この日本では東日本大震災のはるか以前から絶望にさらされていた。(中略)もうすでに僕たちは絶望的な社会、政府のものとで生きていたのだ。」

 たしかにね。だから、そんなものにはさっさと見切りをつけて、もう少し住み心地のいい社会を、自分たちでゼロから作り上げようということになる。既存のレイヤーでは、特定の政党を支持したり、政治家の先生方にお願いしたりするしかないが、別のレイヤーで独自の「政治的行動」を起こせば、元手なしでその日からはじめられる。

 坂口さんの発想の土台には、路上生活者たちの「0円ハウス」の生活形態がある。彼らが段ボールやブルーシートで家を作るように、DIYで政府をつくる(しかもタダで)。こうして坂口さんは、2011年5月10日に「新政府」を設立し、自分ではじめたことの責任をとって「新政府初代内閣総理大臣」に就任してしまった。あっぱれ!

 ただ、この国にはクーデター防止のための内乱罪という罪があるらしくて、新政府なんて勝手に名乗っていたらまずいかもしれない。だから、新政府活動は「芸術」と呼ぶことにした。もともと僕は「社会を変える」行為を「芸術」と呼んでいたので、嘘ではない。確定申告でも、僕のこれらの新政府活動で使った経費は芸術の制作費として申請している。(前掲書)


 発想が軽やかである。私の好きなロックと相通じるスピリットを感じる。おそらく坂口さんにとって、こうした活動は表現であり、創造なのだと思う。文学をやっている者の端くれとして、共感するところ大である。

 さらに坂口さんは新しい経済をつくろうと提案する。路上生活者たちがアルミ缶などの「ゴミ」を貨幣に変えることで、自分たちの独自の経済をつくり出しているように、経済にも無数のレイヤーが存在する。貨幣経済は、そのうちの一つに過ぎない。別のレイヤーで新しい経済をつくることは可能だ。それを彼は「態度経済」として実践しようとする。

 僕がイメージしている態度経済というのは、たとえばこんな感じだ。
 ただ人が歩き、話し、ハイタッチする。それで経済がつくられる。なぜなら、そこにはとても心地よい家や街や共同体があるからである。それだからこそ、人々が密接に交易を行うことができる。
 つまり、生きること。これすなわち態度経済。
 態度の世界では、あの人とあの人が知り合いということなど関係ない。態度というものは明瞭に知覚できるので、目的が共有できれば、即、全員同僚である。(前掲書)


 なんかいい感じだ。「経済」という冷たい言葉に、温かい血が通いはじめる。「お金はみんなで楽しむためにある」と坂口さんは言っている。これなどはミヒャエル・エンデが影響を受けたことでも知られている経済学者、シルビオ・ゲゼルが提唱した「老化するお金」(貯めておくと価値が減少していくので、すぐに使うしかないお金)を連想させる。

 この社会、この現実は冷たくて窮屈だ。それは匿名化したシステムのなかで政治が行われ、物事が決められるからだ。共同体のあり方を変える。そのためにはお金のあり方を変える。「お金」という現実を、別のレイヤーで見てみる。新しいレイヤーで見出されたお金を使って、人と人が交易する。匿名の誰かとしてではなく、お互いに顔の見える相手として、感情を交えて交易する。

 なるほど、いいかもしれない。でも、私自身は、そういうことにはあまり興味がない。お好きな人はどうぞと思うけれど、アマゾンなどでワンクリックでお買い物をするほうが性に合っている、という者もいるわけで。

 坂口さんが考えていることは、たしかに表現としてはふくらみがあって面白いけれど、実体化すると魅力がないもの、かえって煩わしいものになるような気がする。だって交易する人間自体は変わっていないわけだから。そこを変えないかぎり、坂口さんがやっても、共産党や生協などがやっても、ほとんど同じものになるのではないだろうか。

●片山恭一(かたやま・きょういち)
1959年1月5日愛媛県宇和島市に生まれる。愛媛県立宇和島東高等学校卒業。
1977年九州大学農学部に入学。専攻は農業経済学。1981年同大学卒業、大学院に進む。1986年「気配」にて『文学界』新人賞受賞。1995年、『きみの知らないところで世界は動く』はじめての単行本にあたる。2001年刊行された『世界の中心で、愛をさけぶ』はミリオンセラーとなる。著作は『船泊まりまで』 『生きることの発明』(ともに小学館文庫)評論『どこへ向かって死ぬか』(小学館文庫)『死をみつめ、生をひらく』(NHK出版新書)等多数。福岡市在住。